Molecule of the Week (49)

 

シキミ酸(shikimic acid)

 このホームページのためにいろいろと調べ物をしていると、人間と同じように化合物にも「運命」のようなものがあるのだろうか、と思う時があります。栄光の時から一転して破滅に向かう化合物もあれば、知る人ぞ知る影の実力者が突然表舞台で脚光を浴びることもあります。今回の主役シキミ酸は、その後者に当たるタイプの化合物といえるでしょうか。

 あらゆる生物は、生きてゆくために生涯にわたって様々な化合物を作り出します。複雑な化合物は何もないところからいきなり作り出されるのではなく、長い長い段階を経て小さな分子から少しずつ組み上げられます。この過程を「生合成」といい、いくつかの主要な経路が判明しています。

 上に挙げたシキミ酸は、そのキーポイントに位置している化合物です。特に植物は多くの化合物をシキミ酸経由で作りだしており、彼らにとって「シキミ酸経路」は極めて重要なルートです。ここからアミノ酸のフェニルアラニンやトリプトファンが作り出され、それらからはさらに各種アルカロイドが合成されます。色素となるフラボノイド類香料となるバニリンやアネトールなどの芳香族化合物、木質を形成するリグニンなどもみなここから合成されているというのですから、植物にとっていかにシキミ酸が重要な化合物であるかおわかりいただけるでしょう。

シキミ酸から生合成される化合物の例。左上からフェニルアラニン、トリプトファン、アントシアニン、バニリン。

 さてそのシキミ酸が植物の世界でなく人間界で突然引っ張りだことなり、生産が追いつかなくなるほどの事態を迎えています。その原因となったのは鳥インフルエンザ問題で、特効薬と目される「タミフル」はこのシキミ酸を原料に合成されているのです。下の図と見比べていただければわかる通り両者の中心骨格はほぼ同一で、シキミ酸は十数段階の反応を経てタミフルへと変換されるのです。いわば植物の合成原料を借りてきて人間が手を加え、香料や木質ならぬ医薬を作り出しているわけです。

タミフルの構造

 シキミ酸は生合成経路の重要な中間体ですが、すぐに他の化合物に変換されてしまうため、どの植物でもシキミ酸を豊富にストックしているわけではありません。シキミ酸が発見されたのは文字通り樒(しきみ)の実からですが、近年ではその仲間であるトウシキミの実から生産されています。この実を乾燥させたものが中華料理で香辛料として用いられる「八角」で、現在中国ではタミフル生産のためにこれが大変な品薄になっているとのことです(もちろん八角をいくら食べても、インフルエンザに効き目があるわけではありません)。

 シキミ酸の純粋な化学合成も不可能ではありませんが、不斉点を3つも含んでいるためコストがかかり、大量の供給はまだ難しそうです。といってタミフルの緊急増産のためには入手を植物に頼るだけでは済みそうになく、現在大腸菌にシキミ酸を生産させる技術などを検討中とのことです。植物資源の保全のためにも、今後こうした合成化学技術とバイオテクノロジーの組み合わせはますます重要になってきそうです。

 

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