☆炭素の四角形(2)
前回は炭素4つから成るリング、シクロブタン骨格を持つ天然物について取り上げました。しかし人間の方も負けてはおらず、天然にはない奇妙なシクロブタン分子をたくさん作り出しています。今回は人工の4員環化合物について。
4員環を頂点で結びつけた形(スピロ結合といいます)の分子をたくさん作り出しているのはドイツのFitjer教授で、これらはその風車のような形から「ロータン(rotane)」と名付けられています。ここでは3〜6員環のロータンを示しますが、彼らはシクロブタン環を順次増やしていく方法を開発していますから、原理的には4→5→6→7といくらでも大きなロータンを作り出すことが可能です。
彼らは四角形をずらずらとつなげた短冊のような分子も合成しており、そのねじれが右回りのもの、左回りのものをきちんと作り分けることにも成功しています(Tetrahedron 60, 1205 (2004))。それにしても何にでも専門家はいるものだな、とつい妙な感心をしてしまいます。
四角形を頂点でなく辺でつないだ分子も作られています。例えばPettitらによって作られた下の分子は「プテロダクティラジエン」と名付けられています。分子の形を、翼を持つ恐竜プテロダクティルに見立てて付けられた名前です。
これをもっと長くつなげた分子は「ラダーラン(ladderane)」と総称されます。ladderは英語で「はしご」の意味ですからぴったりのネーミングといえるでしょう。前回出てきた細菌の作る脂質分子は、天然産のラダーランであったわけです。
このラダーランを作るにはどうすればいいか。原理的には単結合と二重結合を交互に持つ分子を作り、これに光を当てて2量化させればラダーランができるはずです。
が、これは試してみるとうまくいきません。2本の鎖が固定されていないためランダムに反応が起こり、位置がずれたり、たくさんの鎖がごちゃごちゃにくっつき合ってしまうためです。
最近になり、これをうまく制御した例が報告されました。下のような2種類の分子を2:1の割合で混ぜて結晶を作ると、水素結合の力により二重結合の鎖が上下に重なった形で固定されるのです。ここに光を当てると、結晶のまま[2+2]付加環化反応が起こり、きれいにラダーランができあがるというわけです。
こうした結晶内での固定された配置を利用して反応を制御するというアプローチはこれまでにほとんど報告例がなく、今後の展開が注目されます(Angew.Chem. Int. Ed., 42, 2822 (2003))。
ではこのキュバンをどうやって作ったか――。まず考えられるのは、4員環に2つ二重結合を持つ分子(シクロブタジエン)を用意し、これを[2+2]付加で上下に2枚重ねればいい、ということでしょう。
しかしこれは試してみるとうまく行きません。一つめの[2+2]は進行しますが、2つめは距離が広がってしまうため付加反応が起きず、立方体にはならないのです。
これを乗り越えるのは、前回も出てきた「困難を分割せよ」という考え方です。いくつかのルートでキュバンの合成は達成されていますが、ここではPettitらによる合成例を紹介しましょう。彼らは4員環+4員環では届かないけれど、6員環+4員環ならば届くことを見つけたのです。こうしてかご型の分子ができたところで、「きんちゃく」の口ひもを引き絞るようにして6員環を4員環に縮め、最後にはみ出した分の炭素を切り飛ばす――という手順でキュバンの効率的な合成に成功したのです(J. Am. Chem. Soc. 88:1328)。
Eatonが初めてキュバンを合成したのは40年ほど前ですが、その後にもこうした工夫と改良が重ねられ、現在では工場で一挙にキログラム単位で合成することさえできるようになっています。
例えばキュバンを長くつなげたポリマーが作り出されています。これはキュバンの堅固な骨格を反映して、非常に丈夫な繊維になるそうです。
ちょっと意外な方向として、医薬への応用も検討されています。ベンゼン環のついた下左の化合物は弱いながら抗ガン作用を示しますし、右の分子はエイズウイルスの増殖を抑える作用が報告されています。
我々のような創薬化学の研究者から見るとキュバンの骨格は少々突飛で、一見ちょっと医薬には結びつきにくいイメージを持ちます。しかしその高い脂溶性、3次元方向に腕が広がること、変形しにくいしっかりした構造であることなどを考えると、誘導体の作り方によっては基本骨格として意外に面白い可能性があるかもしれません。
とはいえ今のところこうしたキュバン誘導体は既存の物質を大きく上回るほどの性質ではないため、いずれの分野でもまだ実用化に至ってはいません。しかし例えば医薬や液晶材料など付加価値の高い分野でなら、研究の進展次第でコストの問題をクリアできる化合物が出現する可能性は十分あるのではないでしょうか。
科学者の理論的な興味から出発し、やがて世界を変えるほどの技術に成長した例はコンピュータや原子力を初めとして枚挙にいとまがなく、フラーレンやナノチューブは今まさにその道を歩み出そうとしています。キュバンにもその時がやってくるかどうかはまだわかりませんが、少なくとも進歩のための大きな条件――「科学者の興味を引きつけるだけの魅力がある」化合物であることだけは間違いがなさそうです。分子のサイコロは今後どこに転がってゆくのか、期待を持って見守っていきたいと思います。