☆サッカーボール分子・バックミンスターフラーレン

 この「有機化学美術館」のトップを飾るのに最もふさわしい分子といえば、C60ことバックミンスターフラーレンをおいて他にないでしょう。炭素原子60個がサッカーボール型に集まって出来上がった、奇跡のように美しい分子です。そのユニークな形と性質から、多くのジャンルの科学者の関心を引きつけ続けている化合物ですが、そもそもの発見は全くの偶然によるものでした。

 

 C60は1985年、Kroto、Smalley、Curlらの英米混成チームによって発見された化合物です。「炭素クラスター」と呼ばれる、宇宙空間だけで存在できる特殊な分子がもともとの彼らの研究テーマでした。彼らは地上でこれを再現すべく、真空状態でグラファイト(炭素が蜂の巣状に集まったもの、下図)にレーザービームを当てて蒸発させるという実験を行っていました。レーザーのエネルギーによってグラファイトは炭素数個から数十個の断片(クラスター)に砕け散るので、この様子を調べていたのです。

グラファイトの構造

ところがある日、実験を担当していた大学院生が、多くの断片の中でなぜか炭素数が「60個」のものだけが飛び抜けて多くできていることに気づいたのです。いろいろと条件を変えて実験するうちC60の割合は増えてゆき、ついにほとんどC60だけができる条件までが見つかりました。なぜ50でも100でもなく「60」でなければならないのか?おそらくC60だけが他に比べて特別に安定な構造を持つからだろうと思われたのですが、それがいったいどんなものであるのかを求め、チームは幾日も議論と実験を重ねました。

 炭素からできる環は六角形が最も安定で、グラファイトも六角形が蜂の巣のようにつながった構造です。ではC60も6員環からできているのではないか?Smalleyはこう考え、六角形の紙をたくさん切り抜き、それらを貼り合わせていろいろと模型を作ってみました。しかし六角形だけではどうにもうまく形ができません。悩んでいたときに、Krotoが「うちにあったスタードーム(ボール紙製の天球儀)には五角形の面があった」と発言したのです。そこで五角形を加えて模型を作ってみたところ、ものの見事に60個の頂点と完璧な対称性を持つ多面体が出来上がったのです。これだ!彼らは直感しました。その後もいくつかの証拠が付け加えられ、この構造は恐らく間違いのないものと思われました。

フラーレンは60個の炭素、90本の炭素-炭素結合、30本の二重結合、20の6員環、12の5員環を持つ。全ての炭素が4本の結合の腕を出して結合しているため余りが出ず、ひずみが全体に均等に分散しているので安定な構造である。

 このサッカーボール構造に対し、「サッカーレン」や「フットボーレン」といった名称も提案されましたが、最終的に彼らがこの分子に与えた名前は「バックミンスターフラーレン」でした。五角形と六角形から成るドーム建築の考案者である、バックミンスター・フラーの名にちなんだものです(この長ったらしい名前は少々彼らのおふざけも入っていたようで、普通は「フラーレン(fullerene)」の名がよく使われます)。C60発見の報告は世界最高の権威を誇る科学雑誌「Nature」に掲載され、その美しい構造はその号の表紙を飾る栄誉に浴したのです。

 

 華々しいデビューを飾ったフラーレンでしたが、レーザー法で得られるC60は極めて少量であったため、しばらくの間研究はあまり進展しませんでした。大きなブレイクスルーが訪れたのは1990年で、ドイツのKretschmerとHuffmanが、アーク放電を用いることによって大量のフラーレンを合成できることを見つけたのです。この発見は衝撃的で、学会でこの報告がなされたとたん、聞いていた学者は同じ実験を試すために一斉に大学に飛んで帰ってしまい、席ががら空きになってしまったというエピソードが残っています。こうして世界中でフラーレンの大量生産が始まり、現在まで続くフラーレンフィーバーの幕が上がったのでした。

(ちなみにこのアーク放電でできていたのはフラーレンだけではなく、カーボンナノチューブというもうひとつのノーベル賞級の大発見が潜んでいました。詳しくはこちら)。

 

 大量の素材が得られて一挙に研究が進むと、C60はただ美しいだけでなく、実に面白い性質を持つことが次々に明らかになってゆきました。1991年には、フラーレンにカリウムなどの金属を混ぜたもの(ドーピングといいます)が低温で超伝導性を示すことが明らかになり、大きな反響を呼びました。超伝導は電気抵抗が全くゼロになる現象で、この性質を示す有機化合物はほとんど例がありません。

 またアーク放電の際に炭素棒に金属を混ぜておけば、そのかご型構造の内側に金属原子を閉じ込めることが出来ます。こうした「内包フラーレン」は元のフラーレンといろいろと違う性質を示しますし、中の金属も特有のふるまいを見せるのでこれもまた極めて面白い研究対象です(詳しくはこちら)。

内部に金属原子を閉じこめたフラーレン。

 驚いたことに、フラーレンがエイズに効くのではないかという話まであります。エイズウイルスは増殖のためHIVプロテアーゼと呼ばれる酵素を作りますが、フラーレンはその酵素に空いている丸い穴にぴったりとはまり込み、酵素の働きを止めてしまうというものです。現在カナダのシーシクスティ社がフラーレン誘導体の開発を進め、すでに臨床試験に入っています。他にもフラーレンは抗酸化作用、ラジカル消去作用などを併せ持ち、医薬の素材としても注目を集めています。こんなフラーレンの発見者Kroto、Smalley、Curlらに、1996年のノーベル化学賞が与えられたのも当然の成りゆきといえるでしょう。

HIV proteaseに入り込んだフラーレン分子。左は全原子表示、右は模式図。

 偉大な発見がしばしばそうであるように、C60発見物語にもいくつかの後日談がありました。Krotoらの発見に先立つこと1年、エクソン社の研究陣も彼らと同じような実験を行なっていたのです。エクソングループは何事もなく実験を終えましたが、Krotoらの論文を読んでびっくり仰天、あわててデータを見直してみたところ、そこには確かにC60の存在を示す証拠が残っていたのです。ちょっとした注意力の差で、彼らはまさに大魚を逸したのでした。

 またなんとKrotoらの発見より15年も前に、C60分子の存在を予言していた日本人がいました。豊橋技術科学大の大澤映二教授がその人です。大澤教授は当時(1970年)合成されたばかりのコランニュレン(下図)の構造に興味を持ち、理論計算を行なっていました。ある日大澤教授はこれがサッカーボールの表面模様の一部であることに気づき、ならばC60も安定に存在できるのではないかと考えたのです。この理論計算の結果は日本語の雑誌・単行本に載せられただけでしたので、欧米の科学者には知られることなく、15年後のフラーレン「再発見」に至るまで陽の目を見ないままでした。

コランニュレン

 またアメリカのChapman教授も1981年ころ独立にこの構造を思いつき、有機化学的な手法による全合成を試みていたということです(こちらを参照)。似たようなことを考える人というのは世界中にいるもので、真にオリジナルな着想というものがいかに難しいかを痛感させられるエピソードです。


 フラーレン類の研究は世界中で進められていますが、肝心の「レーザーやアーク放電でいったんバラバラになった炭素が、なぜこうも見事な多面体の形にまとまるのか?」という疑問は依然として謎のままです。これは例えば「プラモデルの部品をまとめて壁に投げつけてみたら、偶然パーツがうまく噛み合って、完成した車の形になって床に落ちた」というようなもので、本来極めて不思議なことです。いろいろな仮説が立てられ、実験が行なわれていますが、いまだすっきりとその謎を解き明かす理論は確立されていません。フラーレンは人類にとって最もなじみ深い元素である炭素の思いもよらぬ新しい貌(かお)でしたが、その表情の影にはいったい何が隠されているのか、しばらくは科学者たちの興味を引きつけて放しそうにありません。

 

 ※関連ページ

 続・フラーレンの話 フラーレンの新世界 フラーレンの全合成 フラーレンと超分子

 世界を変えるか・驚異の新素材カーボンナノチューブ(1) (2)

 

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