☆フラーレンの全合成

 2003年最初の更新には、サッカーボール分子・バックミンスターフラーレンに登場してもらいましょう。フラーレンの項目はこれで4回目になりますが、まあ筆者の趣味なのでお許しを(^^;。今回はフラーレンの全合成の話を取り上げます。

C60・バックミンスターフラーレン

 以前も述べた通り、フラーレンは黒鉛をレーザービームで蒸発させたり、ベンゼンなどの炭化水素を特殊な条件で蒸し焼きにする(燃焼法)ことで合成されます。しかし、我々有機化学者がふだん用いているような反応を組み合わせて、一歩一歩あのサッカーボールの骨格を組み上げることはできないのか?これは化学者にとって非常に魅力的なテーマといえます。

 実のところフラーレンの全合成の試みは、その発見以前から始まっているといえます。1966年、Lawtonらによるコランニュレン(下図)の合成がその第一歩といえるでしょう。この構造を見た大澤映二教授がサッカーボール骨格を思いつき、理論計算によってその存在を予言したことは以前にも述べました。

corannulene

 またアメリカのChapmanらも独立にサッカーボール構造に想到し、1981年ごろからその全合成に挑戦しています。彼らは下のような分子にまで到達したのですが残念ながら完成には至らず、Kroto・Smalleyらのフラーレン発見報告(1985)を見て諦めてしまったようです(といっても筆者には、ここからどうすればフラーレンになるのか、ちょっとよくわからないのですが(^^;)。


 12の環と30個の炭素から成るドデカヘドランですら、その合成には20年近い歳月を必要としました。となると32の環と60個の炭素を持つ怪物・バックミンスターフラーレンの合成には、何より戦略の立て方が重要になってきます。ちょっと面白い手を思いついたのはフランスのRassatで、彼はトリインダンという分子を4つくっつけるとフラーレンになることに気づいたのです(下図)。
×4=

トリインダン(左)とフラーレン(右、色分けしてある)

 これはアイディア賞ものの発想ではありましたが、実際に試してみたところでは残念ながら3つくっついたC45分子が少量(5%)できたにとどまり、ここからフラーレンに持っていくこともできませんでした。

×3=

 少々専門的な余談。筆者も学生時代に、お遊びでフラーレンの合成ルートを考えてみたことがあります。基本的なアイディアとしては、まずエンジイン骨格を5つ環状につないだものを作っておき、これをBergman反応させるとベンゼン環のビラジカル(黄緑で示す)が発生し、隣同士でラジカルがくっつき合って筒状の分子ができるというものです。これにフタと底を取りつければフラーレンの出来上がりというわけです。

 不安定なエンジインを5つ環につないで作るのでまあ無理だろうとは思いますが、「実現の可能性はともかく、アイディアは素晴らしい」と当時先生にほめられた記憶がありますので、もしもこのルートで試してみたい方がおられたらぜひチャレンジしてみて下さい(笑)。別にアイディア料などは請求しませんので。


 これら「正攻法」によるアプローチとはまた別に、意外な角度からフラーレンの合成に近づいたグループもあります。Diedrichらによる研究がそれで、彼らは炭素だけから成る新しい分子、C30を作り出そうとしていました。単結合と三重結合が交互につながって環になったこの分子(下右)は、そのままでは不安定だと考えられたので、彼らはその前駆体として左下のような分子を合成しました。これを質量分析器(分子をレーザービームでイオン化して、その重さを量る器械、以下MSと略)にかけると、黄色で示した線で10個の一酸化炭素分子がちぎれ飛び、右下のようなC30分子ができると考えたのです。
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 この実験を行ってみたところ、なんと予想したC30ではなく、その倍の重さを持つC60分子の生成が観測されたのです。単純な輪っかが2つくっついてサッカーボールができていたわけで、フラーレンの生成機構の謎に迫る非常に興味深い結果といえます。

 その後Rubinらのグループもベンゼン環を2つ鎖でつないだような分子(下)を合成し、やはりMS中でフラーレンに化けることを観測しています。Rubinらのサイトはこの他にも美しいフラーレン関係のCGがたくさん掲載されていますので、興味のある方はこちらをご覧下さい。

 Diedrichらは最近になって下のようなキュバンの親玉のような分子を合成し、これがやはりMS中でC5256、C112などのフラーレンに変化することを報告しています。これらはMSによるイオン化の条件で炭素骨格がくっついたり切れたりを繰り返し、最後に最も安定なフラーレンに落ち着いているものと考えられます。サイコロにレーザーを当てるとボールに化けてしまうわけで、なかなか面白いことが起こるものです。

 

 余談ながら、上に出てきた「分子をレーザービームでイオン化して、その重さを量る器械」というのは、かの田中耕一氏が開発し、ノーベル賞受賞の原動力となった「MALDI TOF-MS」に他なりません。もちろんMSはあくまで分子の重さを測定する器械で、何もフラーレンを合成するためのものではありませんが、偉大な発明ともなるとこうした副産物、波及効果の方も非常に大きいものであるようです。

田中氏のノーベル賞受賞理由には、「タンパク質など生体分子の解析に大きな功績があった」ことが挙げられていますが、他の方法では分析が難しいフラーレン化学においても、今やMALDI TOF-MSは欠かせない手法となっています。


 さて、こうしたMSを用いたC60の生成・検出はそれはそれで非常に面白い結果ではありますが、これで「フラーレンの全合成が成った」というにはかなり問題があるところです。MSは化合物が1000兆分の1gもあれば検出が可能ですし、他の分析方法での裏づけもできていません。要するにこれらの研究では「目に見えないほどの超微量、炭素60個分の重さを持った分子ができているらしい」という程度のところで、やはり多くの化学者を納得させるのには、手にとれる量の化合物が得られて、複数の解析手段でその存在が実証されてから、ということになります。

 Chapman、Rassatらの失敗例を見てわかる通り、フラーレンの全合成には「本来平面であるべきベンゼン環を、いかに球形に丸めるか」が最大の難関になります。フラーレンが球形であるということは、難しく言えばその分のひずみエネルギーを内包しているということで、これを何らかの形で供給してやらなければフラーレンの形にはなりません。レーザービームやアーク放電といった手段ならばこうしたエネルギーを与えることは十分可能ですが、一般の有機反応でこの壁を乗り越えるのはなかなか骨が折れることなのです。

 そこで登場したのがフラッシュ・バキューム・パイロリシス(FVP)という手法です。直訳すれば「瞬間真空熱分解」といったところで、文字通り化合物を水晶の管に閉じ込めて真空状態にし、瞬間的に1000℃前後の高温をかけてやるのです。この熱で一部の炭素−水素結合などがちぎれ飛び、余った結合の腕が手近な炭素に結びついて、通常では合成の難しいひずんだ骨格ができあがるのです。

 FVPはまあいってみれば「野蛮」な手法で、狙った結合だけを切ることが難しいため、収率は数%〜30%程度と決して高くはありません。それでも一般の反応では作りにくい骨格が手短にできるため、FVPはフラーレン合成における非常に強力な手法として浮上してきました。例えばLawtonらが長いステップを経て合成したコランニュレンは、FVPを使えばほんの3段階で合成が可能になります。

黄緑色は塩素原子。水素よりもFVP条件で切れやすく、反応点をある程度制御できる。

 この方法を使って、フラーレンの一部にあたる分子がいろいろと合成されました。C60バックミンスターフラーレンがバッキーボール(BuckyはBuckminsterの愛称)と略称されるのに対し、お椀型のこれらの分子はバッキーボウル(buckybowl)と呼ばれます。

 1996年には、デカシクレンという化合物をFVP処理することでフラーレン骨格の60%に当たるC36のバッキーボウルが合成され、C60全合成がついに射程圏内に入ってきました。

 

デカシクレン(左)とC36H12(右)

 2001年に入り、夢のフラーレン全合成に王手をかけたのはボストン大学のScottのグループです。彼らは下のような分子をC60の前駆体として設計し、例によってレーザーでイオン化してMSで分析したところ、確かにC60が生成していることが確認されたのです。レーザーのエネルギーによって周辺の水素原子がちぎれ、くるくると巻き上がるようにしてごく少量ながらC60ができあがったものと考えられます。

 こうなれば目に見える量のフラーレンを得るまでにはあと一歩です。2002年、Scottは上の分子の3ケ所に塩素原子を導入した分子を11段階で合成し、これをFVP処理することによって、ついに史上初の化学合成フラーレンを得ることに成功しました。切断されやすい塩素原子を、うまくキーポイントとなる場所に配置したのが成功の鍵です。

Scottらのフラーレン前駆体。黄緑色は塩素原子。

 最終段階のFVPの収率は0.1〜1%程度と見積もられています。普通の合成反応と比較すればお話にならないほどの低収率ですが、一挙に30本の結合が切れて、15本の結合が生成しているということを思えば、効率としてはそれほど悪くないと考えることもできるでしょう。通常の反応を積み重ねて作ったドデカヘドランが30段階近くを要していることを思えば、フラーレン合成におけるFVPの威力が絶大であることがよくわかります。

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 最近では「燃焼法」など新しい方法の開発により、フラーレンは以前よりはるかに容易に、安価に大量生産できるようになってきました。そうした状況の中、わざわざコストと手間をかけてフラーレンを全合成する意味はどこにあるのでしょうか?「そこに山があるから」的な、化学者の腕試し、チャレンジとしての意味合いがひとつでしょう。しかしそれよりも、この方法を応用することによって、今までになかった新しい種類のフラーレンを創り出せる可能性がある、という側面がより重要です。金属や小分子を内包したもの、球形でなく変わった形を持つもの、炭素以外の原子を骨格に含んだものなど、今までにない興味深い性質を持つ新規フラーレン類がいくらでも考えられることでしょう。その意味で今回のC60全合成はひとつのゴールではありますが、同時に新たなフラーレン化学のスタート地点であるとも言えます。

 汲めども尽きない泉のように次々と新しい表情を見せるフラーレンの化学に、今回またも新たな入り口が付け加えられました。ここからまたどのような性質を持った化合物が登場してくるのか、今後の研究の進展を楽しみに待ちたいところです。

 

 参考文献  L. T. Scott et al  Science 295, 1500 (2002)

 (総説)  G. Mehta et al  Tetrahedron 54, 13325 (1998)

       L. Scott Angew. Chem. Int. Ed. 43, 4994 (2004)

 

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