現在世界的な問題になっている鳥インフルエンザの特効薬・タミフルが、原料のシキミ酸の不足で供給難に陥りかねないという話を以前書きました。そのタミフルを、石油などから得られる安い原料からの完全な人工合成に成功したという報告がなされました。ハーバード大学のE. J. Corey教授と、東京大学の柴崎正勝教授の2グループから独立に、全く同時に論文が出版されたのです。
タミフルは比較的コンパクトな構造ながら、3つの連続した不斉炭素を持っています。不斉炭素が1つ増えるたびに合成の難易度は何倍にも上がるといわれ、これをどのように制御して作るかが合成化学者の腕の見せ所になります。
両者の合成ルートは全く違うものですが、両グループとも自ら開発した不斉触媒を合成の最初の段階で用い、基礎となる不斉点を導入しています。後はそれを手がかりに官能基を整えてゆくのですが、両者とも途中様々な工夫がなされており、さすがは名手と唸らされます。
結局Coreyらは11段階、柴崎らは18段階でタミフルの合成に成功しています。ちなみに現在ロシュ社がタミフル生産に用いているルートでは、すでに3つの不斉点を持っているシキミ酸から10段階でタミフルに到達しているそうですから、十分に効率のよいルートといえるのではないでしょうか。
とはいえ、これを使えばすぐタミフルが量産できるようになるというものでもありません。実験室で行う反応は数十ミリグラムからせいぜい数グラムの範囲ですが、工業生産となると数百キログラム単位での反応を行わねばなりません。こうなると毒性の強い試薬や激しい条件の反応の使用は制限がかかりますし、コストや手間との兼ね合いももちろん考慮する必要があります。また人の口に入るものである以上、有害な重金属などがppm単位ででも残存すると問題になるので、これを除去する工夫も必要になります。もしどちらかのルートで生産することになったにせよ、まだかなりの検討が必要になるのは間違いないことでしょう。とはいえロシュ社はすでに両教授とコンタクトをとっているということですので、新ルートによるタミフルが世界の膨大な需要を満たせるようになる日はそう遠くないかもしれません。
両教授の仕事は、世界が本当に求めている化合物を自在に作り出して見せたという点で、有機合成という技術のすごさを存分にアピールできた研究ではないかと思います。とはいえもちろん改善の余地はあり、よりよい合成ルートはこれからも求められていくことでしょう。Corey教授は、雑誌のインタビューをこう締めくくっています。「今回の私の仕事が、他のルートでタミフルを合成しようとしている化学者たちへの刺激になることを望む」――さて、これに挑み、上回る者は現れるでしょうか?
J. Am. Chem. Soc. 2006, 128, 6310 ibid. 2006, 128, 6312