☆Lefty in the Right〜分子の世界の右と左

 人に左利きと右利きがいるように、分子の世界にも左利きと右利きがあります。そしてこれは現代有機化学の最も重要なテーマにつながっています。今回は分子の世界の右と左についてお話しましょう。

 最も単純な有機物メタンは、1つの炭素に4つの水素がくっついています。この4つの水素はどう配置されているかというと、炭素を中心に置いた正四面体(三角錐)型の構造をとっています。水素以外の原子がつくと多少結合距離や角度が変化しますが、まあ基本的に正四面体構造をとると考えてよいでしょう。ちなみに有機化学の最も権威ある学会誌の一つに「Tetrahedron」がありますが、これは英語で正四面体を意味します。

 さてこの炭素の4つの腕に、全て違うものがついた場合を考えます。と、下の図のように、2通りの構造ができてしまうことになります。両者はちょうど右手と左手のように、鏡に映すとぴったり重なる関係にあります。そこでこのような関係を「鏡像体」であるといい、またこのような炭素を含む分子を「不斉である」「キラルである」という言い方をします。

 ちょっと複雑な分子はたいていこの不斉炭素を持ちます。鏡像体の化合物は融点、沸点、水溶性などの物理的数値はすべて同じ価を示します。というわけで不斉点を含む化合物が得られた時、それがどちらの配置をとっているかを調べるのは、現代有機化学にとってさえなかなか厄介な問題になります。

 さて、人間の体の主要部分はタンパク質でできています。このタンパク質は20種類のアミノ酸が結合してできたものであり、アミノ酸はグリシンを除いてすべてキラルです。すなわち、生体は不斉点のかたまりということになります。つまり物理的手法では見分けがつけにくい鏡像体も、生体から見れば全く別物の化合物ということになります(例えば右手用に作られた鋏や缶切りは、左手ではうまく扱えないのと同じです)。具体的にいうと、味や匂いが違ったり、生理作用が変化したりします。

 有名な人工甘味料アスパルテームは2つの不斉点を持っていますが、このうち(R,R)体は砂糖の200倍という強い甘味を示すのに対し、(S,S)体はなんと苦味があります(このRとかSというのは不斉点を区別する記号です。この他場合によってD-L、(+)-(-)といった表記法も使われます)。この他にも味が違ったりなくなったりする化合物が多く知られています。

というわけで、小説「鏡の国のアリス」のようにもし我々が鏡の国に行ったならば、そこでの食事はずいぶんまずいものになるはずです。それどころか、人間の体は鏡像体の糖やタンパク質を消化するようにできていないので、ひどい消化不良で苦しむことになるでしょう。

aspartame。左は甘く、右は苦い。

 また、有名な抗生物質であるペニシリンは一方の鏡像体だけが強い抗菌活性を示し、もう一方は全くこういった作用がありません。ペニシリンは細菌の増殖に必要なタンパク質(もちろんキラル)にとりつき、その作用を止めてしまうことで細胞分裂を防ぎます。鏡像体のペニシリンではそのタンパク質との相性が悪く、とりつくことができないわけです。

penicillin。左は活性体、右は不活性。

 有名なサリドマイド事件は、実はこの鏡像体の作用の差に原因がありました。サリドマイドには不斉点が一つありますが、(R)体には鎮静作用があるのに対し、(S)体には催奇性(四肢の矮小化を引き起こす)があったのです。このことに気づかず両者の混合物を市販してしまったのが後に大きな悲劇を呼ぶことになったのです(しかし、その後の研究で、(R)体も体内で少しずつ(S)体に変化してゆくことが確かめられました。このため(R)体のみを服用していても、問題は完全には避けられなかったと思われます)。

サリドマイド。左は(R)体、右は(S)体。

 キラリティの問題はかくも重要です。目に見えない小さな分子をうまく制御し、必要な鏡像体だけをいかに作り上げるか、が20世紀後半の有機化学の最大のテーマであったといって過言ではありません。これまでに様々な手法が開発され、現在もさらに高い効率を目指して研究は日進月歩で進められていますが、このあたりの話はいずれ項を改めて書くことにしましょう。

 無から有を作り出すことができないように、不斉要素の全くないところから、ほしい鏡像体だけを作り出すことは絶対にできません。たどっていけば何らかの天然化合物の不斉点を元に人間は必要な鏡像体を作り出しているのです。では天然の物質の不斉点はどこから来たのでしょう。例えば世界中の生物の体を作っているアミノ酸は全て(L)体であり、(D)体はわずかな例外を除いて天然からは発見されていません。一体どうしたわけで分子の世界が非対称になってしまったのか、これは現代科学でも最大の謎の一つで、恐らくは永遠に解けない謎でしょう。筆者などは、神が「光あれ」と言った時に、両手ではなく右手だけを上げたせいではないかと思っているのですが(笑)。いずれにしろ、この非対称性こそが、現在の豊かな世界を作り出す鍵になったのはまちがいなさそうです。

 

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