Molecule of the Week (41)

 

マウスの性フェロモン、ESP1のアミノ酸配列。

 「母親の涙も、化学的に分析すれば少量の塩分と水分にすぎない。しかし、その涙の中には、化学も分析し得ない『深い愛情』がこもっている事を知らねばならぬ」とは、19世紀の偉大な科学者であるマイケル・ファラデーの名言です。

ところが21世紀の科学者は、なんと母親ならぬオスのマウスの涙から、愛情に深く関わる化学成分を取り出すことに成功しました。東京大学・東原和成助教授のグループによる成果です。

 この化合物はESP1と名付けられたペプチドで、64個のアミノ酸から成ります。上に示したアルファベットの羅列は、このペプチドの構成アミノ酸を、一文字表記で表したものです。思春期を過ぎた大人のマウスはこの化合物を涙腺から分泌し、生殖可能であることを示してメスを引き寄せるのです。こんな暗号のような配列が、「自分はオスである」ことを示す機能を持っているというのはなんだか不思議な感じがします。

 昆虫のフェロモンはたいてい炭素数が10個程度までの小さな分子です。これは放出されてすぐ揮発し、風に乗って広がりやすいためであると考えられます。ところがマウスのESP1は分子量が7000もあり、とても蒸発などしない大きさです。このためマウスは出会うとお互い顔をこすりつけるようにして、この化合物を受け渡しているのです。これまで単純なあいさつ程度に考えられていた行動には、ちゃんとこうした意味があったのでした。

 「オスの涙にフェロモンが含まれているということは、人間の男も泣けば女性を誘惑できるのか?」と当然考えてしまいたくなるところですが、残念ながらこの遺伝子は人間では退化してすでに失われているということです。男は辛くともぐっと涙をこらえる方が、少なくとも人間の場合有効であるようです。

とはいえ涙という不思議な液体が古来から人の心を揺り動かし、時に歴史さえも左右してきたというのはまぎれもない事実です。かつてフェロモンが涙に含まれていた時代の記憶がそうさせている、あるいは今でも何らかの成分が含まれている――というような考えも、あながち突飛な発想とばかりいえないと思うのですが、いかがなものでしょうか?

 Nature 437, 898 (2005) H. Kimoto et al.

 

 関連リンク:東大・東原研究室「最近の成果」

 関連項目:フェロモンの話 ペプチドホルモンの構造決定 ペプチドいろいろ

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