☆アミノ酸・ペプチド・タンパク質(3)〜ペプチドホルモンの構造決定〜

 自然界には20種類のアミノ酸があり、それがずらずらとつながったものをペプチドあるいはタンパク質と呼ぶことを前回までに述べてきました。ペプチドの体内での役割は様々ですが、重要な役目のひとつにホルモンとしての働きがあります。今回はペプチドホルモンの働きと、その構造解明に取り組んだ科学者たちの物語です。

 ホルモンの役割を一言で言えば、「体内でメッセンジャーとして働く分子」ということになります。生体は常に様々な環境の変化にさらされていますが、それに応じて「血圧を上げろ」「睡眠をとれ」「細胞分裂を行え」などといったメッセージを伝え、生理状態のバランスを整えるのがいわゆる「ホルモン」であるわけです。多くのホルモンは非常に微量でもその効果を発揮し、ちょっとでもその生産が狂えば体全体の調子が崩れてしまうほどの非常に重要な存在です。

 ペプチドホルモンの中で最もよく知られているのは、血糖値を引き下げる作用を持つインスリン(下図)でしょう。アミノ酸51個から成りますが、よく見ると21アミノ酸のA鎖(白色)と30アミノ酸のB鎖(水色)が、2ヶ所のS-S結合(黄色)で結びつけられた構造をしています(下右図)。1921年の発見以来、糖尿病の特効薬として多くの患者を死の淵から救い出し続けている有名な化合物です。

insulin。右はA鎖とB鎖を色分けしたもの。

 インスリンの構造解明は発見から30年以上たった1956年、イギリスのフレデリック・サンガーの手によって成し遂げられました。彼はペプチド鎖の先頭のアミノ酸(ペプチド結合していないアミノ基を持つ)だけが高い反応性を持つことを利用し、ここにジニトロフェニル(DNP)基というグループを取りつけて「目印」とすることを考えました。目印をつけた上でペプチド鎖を塩酸でバラバラに分解すると、DNPがついたアミノ酸だけが鮮明な黄色になっていますので、これを取り出して分析すればまず先頭のアミノ酸が何であるかわかります。

 2番目以降のアミノ酸の分析のためには、先頭のアミノ酸だけを切り離す「Edman分解」という反応や、特定の位置でペプチド鎖を切断する特殊な酵素を用い、得られた断片に再びDNP法を適用します。こうして得られた部分構造をうまくつなぎ合わせ、ジグゾーパズルを解くようにして全体の構造を確定するということになります。とにかく根気のいる作業ですが、サンガーは10年以上をかけて全構造を解明し(驚くべきことに、このプロジェクトに参加したのはサンガー自身と大学院生2人だけだったといいます)、これによって1958年のノーベル化学賞を獲得しています。その後技術的な面では様々な改良が加えられましたが、現在でもタンパクの構造解析には基本的にサンガーの開発した方法が用いられています。

この仕事は単に一化合物の構造を決定したというわけでなく、それまで「何やらよくわからない塊」程度に思われていたタンパク質が、実際にはきちんとした構造を持つ化学物質であることを確定したという意味で、まさに記念碑的な業績といえるものです。サンガーはその後、DNAの配列決定法も開発して2度目のノーベル賞を受賞(1980)しており、現代生化学の基礎を築いた巨人としてその名は不朽のものとなっています。


 サンガーの先駆的な研究は、インスリンが100gも手に入ったからこそできる仕事でもありました。しかし一般的にホルモンは非常にわずかの量しか分泌されないため、目に見える量を分離するのでさえ大変な作業になることがほとんどです。

脳内の「視床下部」と呼ばれる場所からは、数種類の微量ペプチドホルモンが分泌されています。この構造解明においては、ロジャー・ギルマンとアンドリュー・シャリーという二人の科学者の、死闘とも言うべき激烈な競争がありました。

 ギルマンとシャリーはもともとは共同研究者でしたが、研究方針の違いからやがて相互不信に陥り、1962年にシャリーはギルマンの元を去って自分の研究室を設立します。二人がまず研究対象としたのは視床下部ホルモンのひとつ、TRF(チロトロピン放出因子)でした。ごく微量しか得られないTRFを精製するため、シャリーは10万頭のブタの脳からTRFを分離し、一方のギルマンはなんと250万頭ものヒツジの脳から数mgのTRFをかき集めています。

TRF(thyrotoropin releasing factor)。pGlu-His-Pro-NH2の構造を持つ。

 TRFは実のところわずか3つのアミノ酸から成る非常に簡単なペプチドでしたが、先頭のグルタミン酸が「ピログルタミン酸」(アミノ基と側鎖のカルボン酸が結合して環になったもの)に、末端のカルボン酸(-COOH)がアミド(-CONH2)に変わっており、通常の分析手段を受け付けなかったためその構造解明は難航しました(ちなみに現在の測定機器をもってすれば、このあたりのことは1時間程度で簡単にわかる事柄になってしまいました)。結局TRFの構造決定は、両者の論文がわずか6日差で発表され、一応第1ラウンドは引き分けという結果に終わりました。


 決着をつけられなかった二人は、「黄体形成ホルモン放出因子」というホルモンの構造を巡ってすぐさま次の競争を始めます。両者の対立は激化し、同じホルモンにギルマンは「LRF」、シャリーは「LH-RH」という名を与え、お互いに相手の命名した名前は絶対に使わないという徹底ぶりでした。

LH-RH(luteinizing hormone releasing hormone)

TRFの構造決定では、シャリーはテキサス大のフォルカーズ教授に構造解析を委ねたのですが、シャリーはその手柄をめぐってフォルカーズとも対立、袂を分かちます。そこでLH-RHの構造決定にあたっては細かいテクニックに長け、真面目で権利を主張しない日本人科学者を雇い入れることを考えました。

まずシャリーは有村章・馬場義彦の両博士を招き、16万5000頭のブタ視床下部から830マイクログラムのLH-RHを分離しました。そして構造決定には、当時末端アミノ酸の超微量検定法を開発したばかりの気鋭の化学者、松尾寿之博士(現・宮崎医科大学学長)を迎え入れます。この松尾氏こそが、後にギルマン・シャリーの死闘、さらにはノーベル賞の行方をも決定づけることになる人物でした。

 1971年の年始、研究室を初めて訪れた松尾氏にシャリーはいきなりLH-RHのサンプルを手渡し、「ギルマンにだけは負けたくない。一日も早く構造を決定してほしい。そしてギルマンを叩きのめしてやりたい」と口汚くギルマンを罵り、松尾氏を驚かせています。しかし手持ちのLH-RHの純度は30%程度(250マイクログラム相当、とうてい目には見えない量です)、しかも研究室の設備は驚くほど貧しく、安い試薬や器具でさえなかなか買わせてもらえないなど、化学者なら誰でも頭を抱えたくなるような悲惨な状態からのスタートでした。

 しかし松尾氏は綿密な実験計画と持ち前の実験技術で、まずLH-RHはそれまでアミノ酸9個から成ると考えられていたのが、実はトリプトファンを含む10個からできていること、先頭はTRFと同じくピログルタミン酸であること、最後尾はやはり-CONH2のアミド構造になっていることなどを次々に明らかにしてゆきます。とはいえこの微量ではやり直しはきかず、手垢や汗に含まれるタンパクさえも簡単に結果を狂わせてしまうため、緊張し通しの毎日であったといいます。

トリプトファン(左)とピログルタミン酸(右)

 さらに残りの貴重なペプチドを酵素分解して断片を詳しく解析し、4月にはついにその配列の可能性を2通りにまで絞り込みました。こうなれば後は最も確実な手段、合成による構造確認に訴えるのが最善です。松尾氏は研究室に毛布を持ち込んで泊まり込み、サンドイッチをかじりながらの実験で、10日かかって目指すペプチドを合成しました。後はこれを有村博士の手に委ね、本物かどうかの活性試験を行うだけとなりました。

 3日後の早朝、「活性が出ました」との有村博士からの報告が入りました。ここにLH-RHの構造が確定したのです。駆けつけたシャリーも興奮に顔を染めるばかりで、言葉もありませんでした。松尾氏は「研究者としての私の生涯において、忘れられない一瞬であった」と後に書き記していますが、まさに力量と運に恵まれた者のみが味わいうる、研究者として至福のひと時であっただろうと思います。後に経過を知った「敵将」ギルマンも、松尾氏のこの手腕には賛辞を惜しまなかったといいます(裏を返せば、これはシャリーの力を認めたくないというギルマンの心理の表れであったかもしれません)。


 競争相手に先んじるため、この結果は当然一刻も早く報告されなければなりません。5月にニューヨークで行われる学会はその場にふさわしいものでしたが、ここで構造を発表しようという松尾氏の意見をシャリーはなぜか頑として拒絶しました。いぶかる松尾氏にシャリーは「ギルマンや他のグループがLH-RHの構造を発表した時だけこちらも発表しろ。しかしそれ以外の場合は絶対にまだ発表するな」と厳命し、これだけは何としても譲ろうとしませんでした。

 そして6月に行われたサンフランシスコの学会で、シャリーは自身の手でLH-RHの構造を発表します。シャリーの発表の座長を務めたのは、他ならぬギルマンその人でした。このときになって松尾氏はシャリーの意図を悟りました。5月の学会で発表を禁じたのは、この場で自ら直接ギルマンの目前で勝利宣言をするためだったわけです。

 ギルマンはこの悔しさを次のレースに叩きつけ、ソマトスタチンの構造決定競争ではシャリーに3年の大差をつけて圧勝します。結局二人の戦いは1勝1敗1引き分けに終わり、1977年にギルマンとシャリーは揃ってノーベル医学生理学賞を受賞することになります。両者の名前が並んだノーベル賞勲記を二人がどのような思いで見つめたのか、余人のうかがい知るところではありません。


 彼らの時代から数十年を経て、精製・分析の技術は格段に進歩しました。もっと少ない材料からはるかに純粋なペプチドを素早く精製できますし、数マイクログラムの試料があれば全自動で構造を決定してくれる機械も市販されています。サンガーや松尾氏の苦闘ももはや昔語り、歴史の中の出来事となりました。

 研究競争は己の意地とプライドを賭けてのぶつかり合いであり、1日でも早く結果を出した者が全てを得る「Winner takes all」の戦いです。そこには一握りの勝者と数え切れないほどの敗者があり、脚光を浴びることのない無名のヒーローたちがいます。ノーベル賞という究極のゴールを目指してのレースは時に過熱して批判の対象ともなりますが、これが科学を進歩させる大きなエネルギーとなっていることも疑いのない事実です。

 「私が誰よりも遠くを見たとしたら、それは私が巨人たちの肩に乗ったからである」とはニュートンの名言です。現在我々がルーチンワークとして行っている単純な実験にも、こうして調べてみればその裏には先人たちの多くの労苦が詰まっています。現代の花形、最先端といわれる研究も、いつか後世の科学者の単なる踏み台になる日が必ずやってきます。現代を生きる科学者の端くれとして、科学という巨大な建造物に、自分もなんとかレンガの一つくらいは積み上げてみたいものだと念願する次第です。

 

この項目は、「歴史の中の化合物」(山崎幹夫著、東京化学同人)、「ストックホルムへの道」(松尾寿之、「ノーベル賞ゲーム」(丸山工作編、岩波書店)に収録)などを参考にしました。特に後者は松尾氏自身による、当事者ならではの素晴らしい一編です。一読をおすすめしたいと思います。

  有機化学のページに戻る