☆分子の多面体

 対称性の高い多面体は、数学者だけでなく化学者にとっても魅力的な存在です。多面体分子といえば何といってもフラ−レン類ですが、こちらは別項を参照して下さい。今回は炭化水素の作り出す、美しい多面体の世界を鑑賞してみましょう。

 ・正四面体

炭素の4本の腕は正四面体をなす角度に突き出ています(例えばメタン、図下左)。しかし炭素原子の方を正四面体の頂点に置いた「テトラヘドラン」(下中)は極めてひずみが大きく、いまだそのものの合成はされていません。このあたりは「炭素のトライアングル」の項をご覧下さい。

     

メタン(左)、テトラヘドラン(中)、黄リン(右)

 有機化合物に限らなければ、黄リン(P4)がまさにこの正四面体構造をとります(上右)。黄リンは比較的低温で発火するので、マッチの点火剤に使われています。

 ・立方体

立方体の形をした有機分子キュバンもまた、この美術館に何度も登場している化合物です。キュバンはテトラヘドランほどではないにせよ、相当にひずみが大きい分子で、以前は安定には存在できないだろうと予想されていました。しかし1964年にEatonによって初めて合成されてみると、キュバンは思ったよりはるかに安定な結晶でした。おそらく分子の対称性が高いので、ひずみが分子全体に均等に行き渡っているためしょう。「不安定なので壊れたいのだけれど、壊れようがないので仕方なく安定に存在している」というのが当たっている表現かもしれません。

キュバン

 Eaton教授はその後、最強の爆薬オクタニトロキュバンや、キュバンがいくつかつながったような化合物(下図)なども作り出しています。同教授は40年もの間キュバンの研究を続けており、まさにキュバンに捧げた研究人生といえそうです。

 ちなみに立方体の分子は、炭素の親戚筋に当たるケイ素やゲルマニウム、スズなどでも合成されています。ただしこれらの元素同士の結合は酸素などと反応しやすいので、まわりを大きな置換基で覆ってやって初めて安定に取り出すことができます。

octathexyloctasilacubane。水色がケイ素原子。

 

 ・正二十面体

 炭素は腕が4本しかないので正二十面体は作れませんが、ホウ素ではこの骨格を持ったものがあります。B12H122-という分子式を持ち、「ドデカヒドロドデカホウ酸イオン」という舌を噛みそうな名前がついています。ホウ素は驚くほど芸達者で、この他にも多くの多面体を作ることが知られています。たとえばβ菱面体ホウ素(B84)は、二重の正二十面体がさらにフラーレンと同じサッカーボール構造の中に内包されたとんでもない分子です。実はサッカーボール分子としてはフラーレンよりもこちらの方が先輩なのです。

ドデカヒドロドデカホウ酸イオン。表面についている水素原子は省略。

 ホウ素のかわりに2つ炭素を組み込んだ「カルボラン」(C2B10H12)は中性の分子であり、有機化合物に組み込むことができます。これを使って癌細胞の近くにホウ素を送り込み、中性子線を当てて癌細胞だけを破壊する新しい癌治療に応用が期待されています。

 ・正多角柱

 角柱のことを英語で「prism」といいます。有機分子では正3〜5角柱が実現しています(正四角柱はキュバン)。

トリプリズマン(左)とペンタプリズマン(右)

 19世紀初め、化学者LadenburgはベンゼンC6H6はこの三角柱構造をとるのではないかと予想していました。しかし実際に合成されたトリプリズマンは不安定で、徐々に安定な平面六角形のベンゼンへ異性化していくことがわかっています。

ペンタプリズマンを合成したのはキュバンと同じEatonのグループですが、彼らはこれを「housane(houseから)」というあだ名で呼んでいました。これは下の絵を見れば一目瞭然でしょう(水素省略)。ちなみにこの合成の過程で出てくる下右の骨格は「churchane(church=教会)」と呼ばれています。突き出た部分を教会の尖塔に見立てたネーミングでしょう。

housane(左)とchurchane(右)

 その他の多面体の中では、理屈上では切頭八面体(下左)などが可能性がありそうですが、これもかなりひずみが大きそうなので、実際に合成するのは相当に難しそうです。Paquette教授は後述のドデカヘドラン全合成を達成した後、一時期10面体の「デカヘドラン」(下右)の合成にも取り組んでいたようですが、完成には至っていないようです。

 こうした研究には、「美しいけれど特に役に立たない分子を、莫大な研究費と長い時間をかけて合成するのにどれだけの意味があるのか」という批判が常につきまといます。有機合成の世界でも、近年は生物学を指向した研究が盛んで、こうした「非実用的な」研究は全体に下火のようです。もちろん、今一番活発に動いているジャンルである生物学分野へのアプローチは重要なことではありますが、有機化学という学問のアイデンティティからすれば、こうした傾向はやや淋しい気がしないでもありません(製薬会社の研究員の言うことではないかもしれませんが(笑))。


 分子の多面体の最高峰といえば、最も複雑で最も高い対称性を持つ「ドデカヘドラン」でしょう。これはまた次項で取り上げてみたいと思います。

ドデカヘドラン

 

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