Molecule of the Week (28)

ビトレックス(bitrex)

 人間の味覚は甘味・酸味・塩辛味・辛味・苦味・旨味の6つに大別できます。このうち甘味・旨味などは体に大事な化合物を取り入れるため、快い味を感じるよう発達した味覚と考えられています。

 これに対し、苦味は「毒に対する警戒信号」であると考えられています。実際、毒性のあるアルカロイド類には苦いものが多く、猛毒として知られるストリキニーネなどはその代表といっていいでしょう。

ストリキニーネ

 警戒信号としての苦味が実用的に使われている例として、上に掲げたビトレックス(安息香酸デナトニウム)があります。この化合物は水に1億分の1溶けているだけでその味が感知できるとされ、ギネスブックにも収録されている史上最強の苦味物質です。

 ビトレックスは殺虫剤・洗剤・不凍液・工業用アルコールなどにごく微量配合され、子供の誤飲などを防ぐために用いられます。猛烈な苦味のおかげで量が少なく済むため製品の性能を損なわず、人体にも害がない理想的な苦味物質というわけです。

 この例でもわかる通り、苦いからといって必ず毒であるわけでもなく、苦くなくても毒性の強い化合物もあります。ビールやお茶など、苦味なしでは考えられない食品もあり、近年の研究でそれらの苦味成分は健康にプラスであることが次々に明らかにされつつあります。

ビールの苦味物質フムロン(左)、茶の苦味成分エピカテキン(右)

 人類は味覚によって危険な食べ物を感知する代わりに、経験と知識によって毒物を避けるように進化し、ついには警戒信号であった苦味をも味覚の一つとして楽しめるまでになった、ともいえます。「感覚」から「知識」へという変化は他の感覚にもいえることで、それこそが文明人の証ともいえるでしょう。その分危険を察知する本能は弱る一方である――というのもまた事実ではあるのでしょうが。

 

 関連項目:おいしい化合物

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