☆三枚羽根分子・トリプチセンの世界

 最近は歴史物みたいなテーマばかりを書いていましたので、久々に「有機化学美術館」らしいテーマを取り上げてみましょう。分子の世界のスリーポインテッドスター・トリプチセンが今回の主役です。

 といってもトリプチセン自体は、「分子の歯車」「ねじれたアミドの性質は?」となど、数回このページに登場願っています。下図のようにベンゼン環が3枚プロペラのように張り出した構造を持ちます。


トリプチセン(triptycene)

 この化合物は1942年、ハーバード大学のPaul Bartlettらによって初めて合成されました。triptyceneという名前は絵を展示するための3枚組のパネル「triptych」に由来します(下図左)。ただしこの「トリプティック」は、今では下図右のように屏風状に接続されることが多く、トリプチセンのイメージとは異なってしまっているようです。


「トリプティック」。近年では右のような配置が多い。

 トリプチセンは一見どうやって合成するのだろうと思うような構造ですが、実はベンザイン(ベンゼンから水素を2つ取り去ったものに相当する不安定な化合物)とアントラセンの反応によって意外と簡単に作り出すことができます。つまりベンザインをうまく発生させる工夫さえすれば、トリプチセン誘導体は比較的簡単に合成可能なのです。


ベンザイン(水色)とアントラセン(黄緑)のDiels-Alder反応

 例えばHartらは1981年、トリプチセンを2つつないだような化合物を作り出しています。彼らは当初この化合物をスターウォーズに登場するXウィング戦闘機に見立て、「X-fightene」という名を考えていたといいます。しかしこれはおふざけが過ぎると思ったのか、結局彼らはこの化合物を「ペンチプチセン」と名付けています。トリプチセンは3つ(tri)のベンゼン環が結合しているのだから、5つ(penta)のベンゼン環が結合したこの化合物はpentiptyceneだろうというわけで、以後このシリーズの化合物は「イプチセン類」(iptycenes)と呼ばれることになりました。


ペンチプチセン

 以後、Hartのグループはいくつもの美しいイプチセン化合物を世に送り出しています。六角形だけでかくも多彩な空間構成ができるのかと思わせるような、造形的にも見事なものが少なくありません。



左上:ペプチプチセン、右上:トリトリプチセン、下:U字型ヘプチプチセン


左:ノニプチセン、右:スーパーイプチセン

 筆者が調べた限り、今のところ下に示すようなシクロイプチセンは実現していないようです。アンチケクレンなどもそうですが、このような大環状骨格というのは合成の際の制御が難しく、困難が伴うようです。しかし実現すれば、ホスト分子などとしてもなかなか面白い可能性がありそうな構造なので、今後に期待したいところです。


シクロイプチセン

 イプチセン類は、ただ構造が面白いだけのお飾り化合物ではありません。例えばトリプチセンを組み込んだ液晶材料や、有機EL素子としての応用が研究されています。しかしトリプチセンの面白い使い道といえば、対称性が高く堅固な骨格を生かした、超分子分野への応用が第一でしょう。
トリプチセンの回転が金属イオンによってストップする、「分子ブレーキ」の部品として使われたことは以前も述べました。最近では台湾のグループから、光によってペンチプチセンの回転を止める「分子ブレーキ」も報告されています。この様子を表したわかりやすい映像がYouTubeに上げられていますのでご覧下さい。


光を当てると二重結合(黄色)が回転し、ジニトロフェニル基(オレンジ)がペンチプチセンの隙間に入り込んで回転を止める。

 またトリプチセン骨格を中心に持った、複雑なカテナン分子も合成されています。ここまで来ればもはや芸術作品でしょう。ベースになるのはトリプチセンに3つの大きなクラウンエーテル環(緑)が結合した化合物で、ジアルキルアンモニウムイオンの鎖はこのクラウン環に通る形で結合します。そこで鎖の末端同士をオレフィンメタセシス反応で縫い合わせ、大きな環(紫)にしてできあがりです。


中央水色部分がトリプチセン骨格

 しかしイプチセン類の重要な応用といえば、やはりMITのTim Swagerらによって開発されたペンチプチセンポリマーでしょう。このポリマーはペンチプチセン・三重結合・ベンゼン環が交互につながった構造で、全体が共役系で結ばれています。この共役系のため、このポリマーは紫外線を浴びると蛍光を発します。
 ところがここにTNTなど電子密度の低い芳香族化合物がやってくると、ペンチプチセンはその隙間の空間にTNTを捕らえ、錯体を形成します。この時の蛍光消失を観測することで、わずかな量のTNTを検出することができるのです。


緑がペンチプチセンポリマー、ピンクがTNT。

 この技術はTNTのわずかな蒸気を感知するセンサーとして、すでに実用化されています。現在、世界中に1億個以上の地雷が埋められているとされ、その撤去は危険を伴うため大きな問題となっていますが、このポリマーは携帯型地雷センサーとして活用され、重要な役割を果たしているのです。かつて「Xウィング戦闘機」と名付けられようとした分子が、地雷の廃絶に用いられているのは面白いことです。

 Swager教授はこの他にも金属イオンや有害物質の検出センサーを作り出しています。分子の性質を知り、組み立て方を知る化学者は、あらゆるものを創り出せるのだと思えます。イプチセン化合物の宇宙はどこまで拡がるのか、期待して見守りたいところです。

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