☆分子の歯車

 ここ数回は薬やプラスチックなど生活に密着した分子の話が続きました。そこで今回はちょっと浮世離れした話、分子の回転の研究を取り上げてみましょう。

 原子と原子の結合(単結合)は固定しているのではなく回転しており、たいていの分子はのたうち回ったりぺこぺこと変形したりと常に動き回っていることは「ロドプシン」の項目でお話しました。もう一度エタン分子の回転の様子を掲げておきましょう。

ethane

 さて、ここにトリプチセンという分子があります。これはがっちりとした分子で、それ自身は変形する余地はまったくありません。しかしちょうど三枚羽根の風車のような形の構造をしており、分子の回転の様子を見るのによく使われます。

triptycene

 例えばこのトリプチセンを2つ、酸素原子を介してつないだ分子があります。酸素原子(赤)の結合は「く」の字型に折れ曲がっており、長さも一定です。このため2つの3枚羽根は外れずに噛み合い、傘歯車のように一緒に回ることがわかっています。青と黄色の2つのトリプチセンが噛み合っているさまがわかっていただけるでしょうか?

 さてこのトリプチセンの回転を人間の手で制御できないかと考えた人がいます。ボストン大学のR.Kelly教授がその人です。彼のアイディアは金属のイオンをブレーキとして使うというものでした。

分子ブレーキ。見やすさのため、水素原子を省略。

 彼は上のような分子を設計しました。この分子のトリプチセン部分は通常の場合制限なくくるくると回っていますが、ここに水銀などのイオン(下図、ピンク色の球)を加えると窒素原子(青)と結合し、右側3つの六角形から成る部分が変形して固定されます。この部分がトリプチセンの羽根の間にはさまり、回転を止めてしまうのです。EDTAという金属イオンを捕まえる試薬でで水銀を取り去ってやると、トリプチセンはまた元のように回り始めます。

回転が止まったところ。

 Kelly教授がこの「分子ブレーキ」の次に考えついたのは「分子ラチェット」でした。「ラチェット」というのはテニスのネットなどを張る時に使う、歯止めのついた一方向にしか回らない歯車のことです。要するに一方向にだけ回転する分子はできないものか、ということでした。

 このアイディアに基づき、彼が設計したのは下図のような分子でした。青い部分はやや「しなって」おり、これに引っかかるのでトリプチセン部分は時計回りにしか回転しないのではないかと考えたのです。

 Kellyグループは実際にこの分子を合成して回転の様子を調べたのですが、残念ながらどちらの方向にも同じ程度にしか回らないことがわかりました。もっともそれは理論的には予測されたことで、もし人の手を加えずに一方向にだけ回るのであればこれは永久機関になってしまいます。

 では、人の手を加えてよいならば一方向にだけ回すことができるのでしょうか?熱力学第二法則という原理の予言するところによれば、これは可能です。Kellyグループはそれにも成功しました。説明が難しい上、絵がうまく書けませんので(^^;)詳細は略しますが、2段階の化学反応によって歯車が時計回りにだけ回るのです。詳しく知りたい方は元文献(Nature, 401,150(1999))を当たってみて下さい。なお、同じ号のNatureには東北大の原田らによる別の原理の分子モーターも掲載されています。

 

 それにしても遊び心に富んだ面白い研究です。もちろんこれらの分子が直接何かの役に立つわけではないのですが、特に欧米ではこうした「新たな概念の提示」というのは高く評価されるようで、Kelly教授の3論文はアメリカ化学会誌、Angewante Chemie、Natureという最高レベルの学会誌に掲載されています。

 他の自然科学は、例えば物理学なら物理法則を、分子生物学なら生体の仕組みを解き明かしていくだけですが、有機化学は自分で新しい機能や概念を考えだし、それを分子という形で実際に作り出せる学問です。こうした「クリエート」の部分こそが、他のジャンルとは一線を画する有機化学ならではの魅力なのではないかと筆者は思っています。

 

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