☆ポリエチレンの物語(1)

 1910年のこと、日本海軍の初めての国産潜水艦が訓練中に沈没し、乗組員14名が全員殉職するという事故がありました。この際、艦長佐久間勉大尉は「今後に役立ててほしい」として、沈み行く船の中で沈没の原因と過程、事故の処理などを手帳に克明に記録し、乗組員たちもまた各自の持ち場を離れることなく最後まで任務に当たり、全員がその場で亡くなっていました。最期の苦悶の中に書かれた佐久間大尉の手記を夏目漱石は「近来の名文」と激賞し、アメリカの著名な軍事評論家も最後の最後まで軍人として行動した艇員たちを「サムライの掟の勝利」と絶賛したということです。

 ところがこの鉄の規律を誇った日本海軍潜水艦隊は、このわずか30年後の太平洋戦争で、アメリカ海軍の前に手も足も出ず敗れ去ることになります。敗北の原因となったのはただひとつ、米軍の最新兵器「レーダー」の存在でした。その威力により相手の位置を正確に知ることのできる米軍と、手探りでしかない日本軍ではまるで勝負にならず、日本軍が声高に叫んでいた精神論はアメリカの科学技術の前に手もなく敗れ去ったのです。

 そして戦局の行方を決定づけた新兵器・レーダーを、潜水艦や航空機に搭載可能にした驚異の新素材こそが、今回の主役ポリエチレンです。しかしある意味で日本の運命を決定づけたその化合物は、例によって全くの偶然で誕生したものでした。


 ポリエチレンの基本構造は、-CH2-という単位(メチレン単位)がどこまでも一直線につながった単純極まりないものです。それなのに「ポリメチレン」ではなく「ポリエチレン」という名前がついているのは、実際にはエチレン(H2C=CH2)を原料とし、これをたくさん(poly)つなげることによって合成されるためです。

ポリエチレン(polyethylene)

 ポリエチレンが発見されたのは1933年のことです。化学メーカーICI社の研究員が、ベンズアルデヒドとエチレンを1400気圧という高圧下で反応させる実験を行っていた際、容器に白いワックス状の固体がこびりついていたのを発見したのです。分析の結果、このワックスはエチレンがたくさんつながって(重合)できていることはわかったのですが、その後実験をやり直してもなかなか同じ結果は得られませんでした。いろいろ試しているうち、どうやら微量の酸素がポリエチレン生成に必要であることがわかってきました。エチレンガスをつぎ足す際に偶然入り込んだわずかな量の酸素が、ポリエチレン合成の鍵であったのです。

 しかし炭素と水素だけでできているポリエチレンの生成に、なぜ酸素が必要なのでしょうか?後にわかったことですが、鍵を握っていたのは酸素から発生する「ラジカル」という化学種の存在でした。

 原子と原子との結合というのは、双方の原子がひとつずつ電子を出し合い、ペアを作ることでできています。両方の原子が電子を融通し合うことによってお互いの電子殻が満たされ、安定な状態を作るわけです。ところが何かのきっかけでこの結合が切れてしまい、今まで2原子が出し合っていた電子のペアの片割れずつしか持たない化学種が発生することがあります。これがラジカルと呼ばれるものです。

共有結合(左)が切れて、ラジカル(右)が発生する。

 radical groupといえば英語で「過激派」という意味がありますが、ラジカルはまさしく分子の世界の過激派であり、ペアになるべき片割れの電子を求めてあちこちの分子と反応し、その結合を引きちぎって破壊してしまう性質を持ちます。人間の体内で発生し、脂質やDNAを壊してしまうヒドロキシラジカル(いわゆる「活性酸素」の一種)、フロンガスから発生し、オゾン層を破壊する塩素ラジカルなど、その破壊活動の範囲は広汎に及んでいます。

 ところがその過激なラジカルが、ポリエチレン合成においては創造的に働くのですから面白いものです。エチレンは二重結合の「余り物」の電子を持っていますので、ラジカルはここに結合します。すると付加した反対側に、新たなラジカルが発生するのです。

R・ + H2C=CH2 → R-CH2-CH2・ (「・」はラジカルの不対電子を表す)

 新たに発生したラジカルは次のエチレンと結合してまた端にラジカルが発生し、これがまたエチレンと反応して……という具合に連鎖反応が起こり、次々と炭素のチェーンは伸びていきます。この反応は、基本的に末端のラジカルが他のラジカルと結合して、電子の過不足がない安定な結合を作るまで続きます。要するに最初にごくわずかなラジカルの発生源さえあれば連鎖反応によって次々とエチレンが重合し、何千何万という炭素がつながったポリエチレンが簡単に得られてしまうわけです。ポリエチレン鎖の末端にはラジカルの元となった酸素由来の官能基がついていますが、これは全体からみればごく一部なので全体の性質には影響せず、できたポリエチレンは純粋な炭化水素の鎖と見なして差し支えありません。


 こうして得られたポリエチレンは軽くて電気を通さず、自由に成形が可能という便利な性質があります。この特質は絶縁ケーブルや軽量なレーダーの設計を可能にし、これら新兵器は早速第二次世界大戦の戦場に投入されます。その威力をフルに活用した米海軍は日本の潜水艇、さらにはドイツの誇るUボートさえも易々と撃沈し、ポリエチレンは第二次世界大戦のゆくえを大きく左右することとなりました。その意味でこの単純極まりない構造の物質は、以前紹介したアセトン六フッ化ウランなどと並び、世界史の流れを大きく変えた化合物のひとつといってよいでしょう。もちろん戦争後はポリ袋や各種プラスチック容器などの形で我々の身の回りにも浸透し、今やポリエチレンなしの生活というのは考えられないほどになっています。

 ところで先ほど、「ポリエチレンを発見したのは1933年、ICI社の研究員によって」といいましたが、実はそれより3年ほど前にこの化合物を合成していた人がいました。1930年、イリノイ大学のカール・マーベル教授のグループが、アルキルリチウムとエチレンの反応によって、これも偶然に史上初のポリエチレンを作り出していたのです。ところが彼らはこの発見を追究することもなく、特許を取得することもしませんでした。「この邪魔な副生成物が、何かの役に立つなどとは想像もしなかった」――と後に彼は語っています。彼が世界で初めて作り出した「邪魔な副生成物」の生産高は、今や年間6000万トンにも及んでいます。

 以前触れたフラーレンのケースなど、時期と場所を得なかったために見逃された新発見というのは実は相当な数に上ることでしょう。「我々の研究テーマではないから」「会社の研究方針から外れるから」「自分が作りたいものではなかったから」――などとして葬り去られている画期的な知見はないのか、我々第一線の研究者たち、そしてマネジメントに当たる者たちは、もう一度胸に手を当てて考えてみる必要があるのかもしれません。

 

 セレンディピティがからんだポリエチレンの発見物語には、まだ続きがあります。これはまた次回項を改めて書くことにしましょう。

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