☆亀の甲をつなげると

 有機化学というといわゆる「亀の甲」、六角形のベンゼン環を思い浮かべる方が多いと思います。そこで今回はこの六角形の組み合わせでできる分子を取り上げてみます。

benzene

 今でこそこの六角形の構造式は常識となっていますが、19世紀の化学者にとってベンゼンの構造は大きな謎でした。C6H6の分子式でありながら極めて安定というベンゼンの性質を説明しようと、多くの化学者からいくつもの構造が提出されています。

1865年、現在使われている式を提案したのはチェコ出身の化学者、オーギュスト・ケクレでした。彼は6匹のヘビが互いのしっぽをくわえて輪になっている夢を見て、この構造を思いついたと言われます。そしてベンゼンの単結合と二重結合は素早く入れ替わっているため、区別ができなくなっていると考えました。

 

 

 この考えは現在の知識からすればまあ「当たらずとも遠からず」といったところなのですが、この式で説明できる事柄も多いので、今でもケクレの構造式は一般によく使われています。実際6員環に(形式上)二重結合を3つ組み込んだ構造は特別に安定で、これを専門用語で「芳香環」、その性質を「芳香族性」などと呼んでいます。

 六角形を2つくっつけた分子がナフタレンで、防虫剤としておなじみでしょう。もちろんこれも芳香族性を持ちます。

naphthalene

 さらに横一列にベンゼン環を継ぎ足した形の分子もありますが、分子が長くなるにつれて徐々に不安定になっていくことが知られています。これらの構造式を描いてみると、3つの二重結合を持つ6員環は2つだけで、残りの環にはどうやっても二重結合2つだけしかに組み込めません。このため徐々に芳香族性が低下し、不安定になってくるのです。

アントラセン(左)、テトラセン(右)

 ジグザグにベンゼン環をつないでいった場合は、どの環にも3つの二重結合を持たせることができます。このためジグザグ系列は分子が長くなっても比較的安定です。

フェナントレン(左)、クリセン(右)

 六角形を六つ集めればひとまわり大きな六角形ができます。この形をした分子は「コロネン」(下左)と呼ばれます。太陽のコロナからとられた命名です。これは完全に平面の分子です。

 ここまで書いてきた通り芳香環は平面の正六角形です。しかし下のように六角形5つで環を作った場合はどうなるでしょうか?この分子の場合、平面性を満たそうとすれば正六角形が崩れ、正六角形を保とうとすれば平面から外れてしまいます。実際にこの分子を合成してみた結果、この「コランニュレン」は皿のような形をとっていることがわかりました。さらに面白いことに、この「皿」はまるで傘が「おちょこ」になるようにぺこぺこと反転を繰り返しているそうです。またこの分子はサッカーボール分子フラーレンの一部を切り出した形でもあり、フラーレン類の人工合成の一里塚として注目されています。

コランニュレン。上から見たところ、横から見たところ。

 逆に7つのベンゼンが環を作った場合にはどうなるでしょう?この場合は鞍(くら)型に反り返った構造になります。これも現在注目される新素材・カーボンナノチューブの部分構造であり、その形態を決める大きな要因になると考えられています。

7-サーキュレン。やや反り返った構造。

 さて、ベンゼンの構造を解き明かしたのはケクレであるといいましたが、彼の名前を記念した分子もあります。下に示す「ケクレン」がそれです。

kekulene

 ご覧の通り12個のベンゼン環が集まってできた大きな正六角形の分子です。1978年、Diedrichらによって合成されました。対称性が高いため融点が高く(>620°C)、溶媒への溶解性も極端に低いそうです(専門の方向け:このためNMR測定は大変で、1,3,5-トリクロロベンゼン-d3の215°Cでの飽和溶液を5万回積算してようやく使い物になるチャートが得られたということです)。

 最近ではさらに大きな分子も合成されています。このジャンルの第一人者はドイツのMullen教授で、巨大な多環系炭化水素を次々に報告しています。このままどこまでも炭素がシート状につながったのがグラファイト(黒鉛)ということになりますが、これらの分子がどのあたりからグラファイトに近い性質を示し始めるのか興味が持たれるところです。

46環性、91環性の巨大芳香族炭化水素。

 ここまでは平面的な分子ばかりでしたので、立体的な分子もひとつ紹介しましょう。ベンゼン環を次々につないでいけば6個で一周してコロネン型になりますが、それが上下にずれていけばらせん状の分子ができあがるはずです。1955年にNewmanらは実際にこの分子を合成し、「ヘリセン」と名付けました。「helice」は英語で「らせん」のことですからぴったりのネーミングと言えるでしょう。当然この分子には右回りと左回りがあり、分割することも可能です。不斉炭素を持たないのに、分子の込み具合によってキラルな性質を持つ分子があり得ることを示した歴史的業績といえます。

[6]helicene。水素は省略。

 専門の方はどうやって合成したか考えてみられるのも面白いでしょう。現在ではベンゼン環を14個つないだ完全ならせん状分子も合成されており、この種の分子の旋光度は数千から数万度にも達するということです。

また、最近下のような分子が合成されましたが、これも分子内の反発を避けてスクリュー状にねじれた形になることがわかっています。ベンゼン環は平面を好むとはいえ、ある程度なら柔軟に、しなやかにもなれるようです。

ヘキサベンゾトリフェニレン。上から見たところ、横から見たところ。

 最後にちょっと恐い話を。芳香族炭化水素の中には、強い発ガン性を持つものがあります。中でも5つのベンゼン環が集まったベンゾピレン(下左)は強烈な発ガン物質として知られています。

人間の体は、水に溶けにくい異物が入ってくると、これに酸素を取りつけて(酸化作用)、水に溶けやすくして体外に流し出そうとします。ベンゾピレンも右図のように酸化されるのですが、これが極めて強い反応性を持ち、近くのDNAと反応してこれを傷つけてしまうのです。DNAを破壊された細胞は異常な増殖を始め、やがてガン細胞に変化していきます。生体の防御機構は極めて精妙にできていますが、この場合はそれが裏目に出てしまったわけです。

  

 こうした化学物質による発ガンを最初に証明したのは東京帝国大学の山極勝三郎教授で、1915年のことでした。当時はガンの原因についていろいろな説が提唱されていましたが、彼は煙突の掃除夫にガンが多発することから、コールタールに含まれる化学物質がガンの原因ではないかと考えたのです。山極は世間の批判を受けつつも、ウサギの耳にコールタールを塗りつける実験を辛抱強く行い、3年がかりで人工的にガンを発生させることに成功したのです。

 ところが同時期にデンマークのフィビガーは「寄生虫がガンの原因である」とする説を発表し、これによって1926年のノーベル医学・生理学賞を受賞してしまいました。山極・フィビガー両者の死後になって、正しかった(注1)のは山極の方であることがわかりましたが、今さら受賞者を取り替えることもできず賞はそのままになっています。本来なら日本のノーベル賞第1号には山極勝三郎の名が刻まれてしかるべきところでしたが、彼にはよくよく運がなかったという他はありません。コールタールからベンゾピレンが主要発ガン物質としてを単離されるのが1930年、その発ガン機構が解明されるのは1977年のことで、時として真実が明らかになるには時間がかかるもののようです。


 ベンゼン環をつないだ分子について概観しました。ケクレがベンゼンの構造を解き明かした時には「もう有機化学には解明すべきことは何も残っていない」とまで言われたそうですが、この言葉が全く当たっていなかったことはその後の歴史が示す通りです。

 芳香環をどこまでも平面的につないでいったものがグラファイトですが、これを筒状に丸めたものがカーボンナノチューブ、球状に丸めたものがフラーレンともいえますから、「亀の甲」は相変わらず科学の最先端を走り続けているともいえます。19世紀に発見された、有機化学の象徴ともいえる「亀の甲」は、21世紀にもこの分野の中心の座を明け渡すことはなさそうです。


 (注1)フィビガーの発見した「寄生虫がガンを引き起こす」というのも全くの間違いではないのですが、ごく一部の系統のマウスにのみ見られる現象であり、一般性のある事柄ではありません。現代のガン研究は山極の業績の上に成り立っており、重く評価されるべきは間違いなく山極の方でした。

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