☆プロテアーゼ阻害剤(2)〜コンピュータによる医薬のデザイン〜

 前回、合理的な分子設計によってACE阻害剤がデザインされたことを述べました。しかし現代の創薬の現場にはさまざまな技術が投入され、大きく様変わりしています。今回はそのあたりの話を。

 創薬をめぐる新しい波の中でも最も大きなものは、やはりコンピュータの導入でしょう。かつては様々な分子を闇雲に合成しては試験し、試行錯誤を繰り返すしかなかったものが、現在では標的タンパク質を3次元のグラフィックスとして表示し、画面上で薬剤の分子をはめ込んで最適な化合物をデザインできるように変化してきたのです。

 タンパク質は非常に複雑な立体構造をとっていますが、NMRやX線結晶解析などと呼ばれる手法を使えば具体的にタンパクがどういう構造で、どこが活性中心かといったことが解明できるようになります。タンパク質に薬剤分子がはまり込んだ状態を解析し、「薬剤のこの場所をこう変えればさらに強く結合する」という推測を行い、実際にその分子を合成してタンパクとの複合体を作って再び解析し――というサイクルを繰り返すことにより、タンパクの働きを強力にブロックする薬剤を効率的に作り出すことが可能になったのです。

 中でも有名な成功例は、メルク社によるエイズ治療薬です。エイズによる累計の死者は世界でこれまでに2000万人、さらに現在も4000万人がエイズウィルス(HIV)に感染しているとされ、今や人類の抱える最大の問題のひとつと言っても過言ではないでしょう。この治療薬が、コンピュータによるデザインで作り出されたのです。

コンピュータによるデザインで生み出されたHIVプロテアーゼ阻害剤、indinavir

 エイズに限らずウィルス退治が非常に難しいのは、実はその仕組みの単純さによります。細菌は自己増殖するための仕組みを一通り自前で持っているのに対し、ウィルスは最低限の数種類のタンパクだけしか持っておらず、後は宿主の細胞のシステムを乗っ取って増殖を果たすのです。このため「このタンパクを阻害してやれば増殖を止められる」という狙い所が少なく、攻撃のしようが難しいのです。

 そのエイズウィルス(HIV)の数少ない「弁慶の泣き所」が、HIVプロテアーゼです。エイズウィルスはヒトの細胞に入り込むとタンパク合成系を乗っ取り、まずずらりと長いタンパク鎖を作ります。その一部であるHIVプロテアーゼは長い鎖からまず自分自身を切り出し、さらに他の必要なタンパクを順次切り出すという手順で増殖に必要なタンパクを作り出します。というわけでこのHIVプロテアーゼの働きを止めてしまえば、エイズウィルスの増殖は防げるはずです。

 HIVプロテアーゼの構造は1989年に明らかになりましたが、実のところその構造はなかなか奇妙なものでした。HIVプロテアーゼは99個のアミノ酸から成る同じタンパク鎖が2つ対称的に組み合わさった構造をしており、中央に深いくぼみがあります。このくぼみにターゲットのタンパクがはまり込むと両方からタンパク鎖の腕がフタをするように閉じ、逃げられなくした上で切断を行います。このように大きく動くタンパクは当然形が定まらず、阻害剤のデザインも非常に難しくなります。

HIVプロテアーゼの中に取り込まれた阻害剤インディナビル(緑)。

 メルク社研究陣は合成による試行錯誤とコンピュータによる構造解析を組み合わせ、1996年に世界初のHIVプロテアーゼ阻害剤インディナビルを上市しました。FDA(アメリカ厚生省・食品医薬品局)によるこの薬の審査は他を差し置いて最優先で行われ、申請されてから認可されるまでわずか42日というスピード記録を打ち立てています。アメリカ社会にとって、いかに待望されていた薬かがよくわかります。

現在HIVプロテアーゼ阻害剤は他にも数種類が認可されており、「逆転写酵素阻害剤」と呼ばれる別のタイプの薬と組み合わせて投与(カクテル療法)することにより、ウィルスを検出限界以下まで減少させることができるようになりました(ただしこの薬はウィルスの増殖を抑えるだけで、全滅させることは難しいため、一生飲み続けなければならないという問題はあります)。ともかくエイズに感染しても発症を抑え込めるようになったという事実は、現代医学の偉大な勝利の一つに数えられることでしょう。

カクテル療法に用いられる逆転写酵素阻害剤AZT。

 ちなみにある種のフラーレン誘導体もこのHIVプロテアーゼの阻害剤として働き、現在臨床試験が進められているのは以前も述べた通りです。フラーレンの人体への応用はこれが初めてですが、果たして炭素ボールがエイズ治療薬として活躍する日はやってくるでしょうか?

 

 現在問題となっている新型肺炎SARSのウィルスも早速解析が行われ、早くも各種タンパクの構造が解明されています。市販の薬のうち、SARSプロテアーゼに有効なものはないかコンピュータによる解析が行われた結果、なんとHIVプロテアーゼ阻害剤として市販されているネルフィナビルという薬がある程度有効であることが明らかになりました。こうした情報は、今後SARS治療薬の完成に向けて大きな手がかりとなっていくことでしょう。

SARSプロテアーゼ構造

HIVプロテアーゼ阻害剤・ネルフィナビル。SARSプロテアーゼも阻害する。

 創薬におけるコンピュータの利用は阻害剤の設計だけでなく、化合物の情報管理、各種物性データの算出、標的タンパク質の構造情報の比較などなど多岐に渡っています。今後計算性能の向上により、研究の現場におけるコンピュータの存在感はさらに増して行くのは間違いないことでしょう。

 しかしそれによって以前よりも簡単に、次々と難病の治療薬が作れるようになったか――といえば残念ながら答えは「ノー」です。凄まじい進歩を遂げる現代のコンピュータをもってしても複雑なタンパク質分子の動きを完全にシミュレートすることはできず、理論と実際が食い違うことも実際には少なくありません。

 また特定のタンパクの働きを止める化合物ができても、それがすぐさま薬になるわけでもありません。ある化合物が医薬として成立するためには安定性・毒性・副作用・吸収性など様々なファクターを満たす必要があり、これらに関してはまだまだコンピュータでシミュレートらしいものさえできる段階ではありません。人体はコンピュータで計算し尽くすにはあまりに複雑すぎ、難解すぎる存在なのです。

 特に副作用や薬物相互作用(薬の「飲み合わせ」)の問題については近年研究が進み、かなり早い段階からふるい落としがかけられるようになっています。薬害を防ぐという強い社会的要請があるのでこれは当然のことではあるのですが、合成研究者の立場としては「せっかくよく効いてるのに、こんな程度の傷で落とされてしまうのか」と思うことも少なくありません。科学が進展し、生体と医薬についての理解が深まれば深まるほど、「安全で有効な薬剤」というゴールは逆に遠ざかってゆく――というのが、現場で研究に携わる者の実感ではあります。

 ひとつの医薬を作り出すためには数万の候補化合物を合成する必要があり、全てをトータルすれば10〜15年の歳月と、数百億円の費用が必要といわれます。ひとつの製品を作り出すのがこうまで難しい領域というのは、他に全く例がありません。問題が起きた時にだけ取り上げられ、何かと批判の対象になりやすいのが医薬の宿命ではありますが、ひとつの医薬の陰には人々の膨大な努力が隠されていること、そしてそれによって救われた生命も数え切れないほどあることをここに強調しておきたいと思います。

 

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