☆ノーベル化学賞・野依良治教授の業績(2)

 前項で二重結合の水素添加には触媒が必要であること、そしてその触媒をうまく細工すれば右手型と左手型の作り分けができるのではないか、というところまでを解説しました。では具体的に何をどうすればいいのでしょうか。

 右と左の見分けがつく触媒を作る。これにはリン化合物が金属にくっつきやすい(「配位する」といいます)性質を利用します。適当な構造を持ったリン化合物(配位子)を設計して金属にくっつけてやって、触媒となる金属原子のまわりをうまい具合に覆い隠してやるのです。うまくいけば、二重結合の片方の面だけが金属にくっつくようになり、結果として一方の面からだけ水素が反応したものができると考えられます(先ほどのロボットの例えでいえば、ロボットの右手だけに覆いをつけて働かなくなるようにする、ということです)。こうした触媒を「不斉触媒」と呼びます。とはいえ最初は「こういうものを作ればよい」というような理論は簡単に立てられず、世界中で膨大な数の不斉配位子が合成され、試行錯誤の日々が続きました。

 まず若き野依教授のグループがシクロプロパン化という反応を不斉化することに成功し、この分野の先鞭をつけました(ただし、このときの左右の比率は55:45以下という低いものでした)。最初に実用的な成果を挙げたのはフランスのKagan教授で、彼らのグループは1971年、DIOPという配位子を使い、86:14という比率で右手型のアミノ酸を優先的に作り出すことに成功したのです。翌72年にはモンサント社のKnowles博士のグループがDIPAMPという配位子を用いて97:3という高い比率での不斉水素化に成功し、これを用いてパーキンソン病の特効薬であるL-DOPAを工業生産するところまでこぎつけました。これが認められ、Knowles博士は野依・Sharpless両教授とともに今回のノーベル賞を共同受賞しています(このあたり誰が一番先に成功したかというのは難しいところで、当初ノーベル賞には野依、sharpless、Kaganの3教授が有力と言われていました。ノーベル賞は3人までと決まっているので、こうした当落線上の争いは毎回といっていいほど起こります。Kagan教授の落選については現在フランス政府、及びヨーロッパの化学界からも強い非難の声が挙がっています)。

KaganのDIOP(上左)、KnowlesのDIPAMP(上右)、それによって作られるDOPA(下)

紫の球がロジウム金属、オレンジ色がリン原子。

 こうして一部の化合物はかなり高い比率で片方だけを作り出すことができるようになりましたが、結局「基質特異性」という問題は残りました。要するに、ある触媒はAという化合物を作るだけなら優秀でも、そこからちょっとでも違う化合物Bを作ろうとすると全くダメになってしまう、という相性の問題があったのです。

 そこに登場したのが野依教授の開発した不斉触媒「BINAP」でした。BINAPは下に示すような美しい構造を持っています(筆者の個人的な思いかも知れませんが、優れた機能を持つ分子はたいてい美しい構造、機能美とでもいうべきものを持っているように思います)。そしてBINAPは基質を選ばずいろいろな二重結合を持つ化合物を高い選択性で水素化することができ、この世界の常識をくつがえしたのでした。

BINAP。それぞれ上、横、正面から見たところ。

 BINAPの構造を見るとねじれたビナフチル部分(水色)がハサミのようにしなやかに動き、正面に大きく張り出した4枚のフェニル基(緑の六角形)が金属(紫)のまわりを覆って一方からしか二重結合が近づけないようにしているのがわかります(わかりにくいかもしれませんけど(^^;)。右にねじれたBINAPからは右手型の分子が、左にねじれたBINAPからは左手型の生成物が得られることになります。

 BINAPは不斉水素化だけでなく、ほかにもいろいろな不斉反応を触媒することができる優れた配位子です。これを利用して、香料であるメントールや抗生物質のカルバペネムなどが工業生産されています。メントールの合成では左右の比率が99:1以上、1分子のBINAPが10万分子以上のキラルな化合物を作り出すといいますから、その効率は驚くべきものがあります。その他にもBINAPを用いて合成された化合物はモルヒネ、FK506、イブプロフェン、プロスタグランジン、ビタミンD・Eなど数限りなくあり、有機合成全体に与えたインパクトは計り知れません。最近では炭素−炭素の二重結合だけでなく、単純な炭素−酸素の二重結合が水素化できる素晴らしいプロセスも発表されており、応用範囲はさらに広がっていくものと考えられます。

BINAPを用いて工業生産されるメントール(左)、カルバペネム(右)

それぞれの鏡像体には香り、抗菌活性が全くない。

 野依先生の業績を長々と紹介してきました(本当はまだまだ書ききれないほど各分野で功績を挙げておられるのですが)。筆者は数回先生の講演を伺う機会がありましたが、話している最中にも相手の目を凝視して決して離さない、鋭い眼光がなんとも印象的でした。とにかく全身から圧倒的な威厳、オーラを放っており、一介の学生であった筆者をも「これがノーベル賞を取る男か」と納得させるだけの、強烈なカリスマ性の持ち主であったのをよく覚えています。

 野依先生の研究に対する厳しい態度はよく知られていますが、それを支えるエネルギーとなったのは化学に対する愛情であったのではないかと思います。野依先生は若いころに化学構造式の六角形(いわゆる亀の甲)の美しさに魅せられて化学の道に進むことを選んだと聞きます。そしてBINAPはまさに六角形でできた分子です。BINAPの合成は当初大変な苦労があったといいますが、執念でこれを乗り越える原動力となったのは、BINAPの美しい構造への思い入れ、惚れ込み具合だったのではないでしょうか。筆者の勝手な推測ではありますが、研究を推し進めるエネルギーとなるのは結局そういう「思い込み」の部分が非常に大きいのではないかと思います。


 最後に付け加えておくと、野依先生の業績はもちろんすばらしいものですが、かといって野依先生一人が日本の化学界の中で全く突出した存在だというわけでもありません。素晴らしい成果を残している先生は他にも数多くいますし、自己不斉増幅などといった非常にオリジナリティの高いユニークな研究をしている先生もおられます。日本の有機化学者の層は厚く、質量ともに欧米と互角以上に渡り合える数少ない分野であることをここに強調しておきたいと思います。

 21世紀最初、ノーベル賞100周年となった今年は、日本の化学界にとって記念すべき年となりました。今回の野依良治先生の快挙を心より祝いたいと思います。

 

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