☆ネーミングいろいろ(4)〜人名を含む化合物〜

 ミランダ、アリエル、チタニア、オベロン、デスデモナ、ビアンカ、ジュリエット……これらは何の名前かご存知でしょうか?実はこれらはみな天王星の衛星の名前です。天王星には27個の衛星が見つかっていますが、これらには文豪シェイクスピアの作品(一部、詩人ポープの作品も)に登場する女性の名がつけられることになっているのです。

 発見者が自由に名前を付けてよいことになっている小惑星の場合はさらに多士済々で、日本人だけをとっても義経、竜馬、新撰組といった歴史上の有名人、手塚治虫に松本零士、さらには薬師丸ひろ子や中村玉緒、庵野秀明といった人々までが星の名前として登録されているのだそうです。

 化学の方面で人名といえば元素名に多く、キュリー・アインシュタイン・ラザフォード・レントゲンなど錚々たる科学者(主に核物理学者)が元素の名となり、科学史の中に永遠にその存在を刻んでいます。しかし我らが有機化学の領域では、化合物名は地名や学名にちなむものが多く、人名に由来する化合物名というのはあまり多くありません。

 そうした人名化合物の中で最も有名な存在といえば、やはりフラーレンということになるでしょう。サッカーボール型のドーム建築を発明した建築家バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)がその名の元です。フラーは数学者・物理学者でもある他、「宇宙船地球号」の概念を提唱した思想家・哲学者としての顔も持っており、「20世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれる巨人です。なおC60を指して彼のフルネームを取った「バックミンスターフラーレン」と呼ぶこともあり、「バッキーボール」「バッキーチューブ」(カーボンナノチューブのこと)といったナノカーボン類の愛称はここから来ています。

フラーレン(fullerene,C60

 文学作品の登場人物から取られた例としては、ブリストルマイヤーズ社の研究陣が発見した一群の抗生物質があります。このチームのリーダーNettleton博士が熱烈なオペラファンであったことから、彼らは単離した化合物にプッチーニの代表作「ラ・ボエーム」の登場人物の名を付けたのです。こうしてムゼッタマイシン、マルチェロマイシン、ルドルフォマイシン、コリーネマイシンなどといった天然物が世に送り出されることとなりました(マイシン(-mycin)は抗生物質につく接尾語)。このうちルドルフォマイシンに結合していた新種の糖が「rednose」と名付けられた経緯は以前に述べた通りです。

ルドルフォマイシン。赤枠内が新種の糖レドノース。

 有機化学分野ではDess-Martin試薬、Danishefskyジエンのように開発者の名を冠した化合物名はたくさんありますが、有名な化学者を讃えたネーミングというのはなぜかあまりありません。数少ない例としてはベンゼンの正六角形構造の発案者であるAugust Kekuleの名を取った「ケクレン」があります。ベンゼン環12個が集まって大きな正六角形を成した、まさにその名にふさわしい分子です。

kekulene

 最近ではコンピュータによるデータベース検索が普及していますが、以前の化学者にとってはある反応に有効な試薬を探すというのは大変に骨の折れる作業でした。これを大きく軽減してくれた「合成化学者の友」とも言える本が「Reagents for Organic Synthesis」で、その著者Louis FieserとMary Fieser夫妻の名から「Fieser & Fieser」と呼ばれ親しまれています。そのLouis Fieserの弟子、メキシコ人化学者のX.Dominguezは師に敬意を表し、自ら発見した化合物に「ルイスフィーゼロン」の名を与えています。

louisfieserone

 もうひとつ、6員環形成反応として有名なFriedel-Crafts反応の発見者であるCharles Friedelの名を讃え、フリーデリンと名付けられた化合物もあります。1899年の発見当初はどのような構造かわかっていませんでしたが、後に下のような6員環を5つつなげた基本骨格を持つことが明らかになりました。この化合物のFriedel-Crafts反応を利用した全合成が報告されているのも面白いことです。

friedelin

 化合物名にちゃっかりと自分自身の名前を滑り込ませてしまう強者も中にはいます。強力な免疫抑制剤として注目を集めたサングリフェリンA(Sanglifehrin A)は1999年にノバルティス社の研究陣によって報告された化合物ですが、この論文の著者にJ. J. SanglierとT. Fehrというふたりの名前が見えるのです(J. Antibiot. 1999, 52, 474)。どういういきさつでこの名が付けられたのか、ちょっと興味があるところです。

Sanglifehrin A

 クロスカップリング反応の大家、MITのBuchwald教授の下からは、ここ数年様々な高性能触媒が発表されています。これらの触媒に用いるリン配位子(phosphine ligand)はそれを作り出した学生の名が取られ、Johnphos, Davephos, Josiphos, Xphosなどと名前が付けられています。恐らくは研究室内で使われていた通称が、そのまま論文に記載されて発表されたものでしょうか。しかし学生達も自分の名を冠した触媒が商品化され、世界で使われるとなれば俄然張り切って実験に励むでしょうから、インセンティブとしてもBuchwald式命名法はなかなかうまい手段であるのかも知れません。

JosiphosとXphos

 近年は「ネーミングライツ」なるものが流行しており、ヤフードーム、スカイマークスタジアムなど既存の施設が次々に企業名を冠した名称に名を変えています(渋谷公会堂が「渋谷C.C.Lemonホール」と名を変えたと聞いた時は、筆者も相当に驚きました)。天文学の世界にはすでにこうしたケースがあり、小惑星を発見した学者がその命名権をある大富豪に売却し、研究資金に充てたということです。ちなみに富豪は星に妻の名を与え、「ベッティーナ」と命名したそうです。化学の世界にもこうした傾向が及んでくるようなことも考えられそうですが、まあこれも想像するとなかなか味気ないものがあります。

 他の分野では一般的な命名である、偉大な化学者の名を付けるという命名はこれからもう少し出てきてもよさそうな気もします。「ウッドワーダン」や「コーリーマイシン」であるとか、あるいは自らの師を讃える化合物名はもっとあってもいいのではないでしょうか。まあ毒物や爆発物に名を付けられてもあまりありがたくないでしょうから、化合物の選定は慎重にする必要がありそうですが……。

 

 参考:「化学者たちのネームゲーム」 化学同人

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