☆ひずんだ多重結合(2)
ということで前回の続き。
天然にはトランスシクロオクテン骨格を持ったものは存在しないようですが、9員環のトランスシクロノネン骨格ならカリオフィレンなどの例があります。これをハーバード大のCorey教授が初めて全合成し、名を上げたという話は以前にも紹介しました。また最近では慶応大学の只野教授のグループが、これをさらに複雑にしたようなペスタロチオプシンの全合成を達成し、妙技を披露しています。
左がカリオフィレン、右がペスタロチオプシン。
では7員環以下のシクロアルケンは無理なのか?このテーマに挑んだのも、若き日のCorey教授でした。Coreyは1,2-ジオールをチオ炭酸エステルとし、これをリン化合物で処理することによってsyn脱離させ、オレフィンとする反応を開発しています。これはCorey-Winter反応と呼ばれ、形式的にはオスミウムによるオレフィンの酸化の逆反応に当たります。
この反応をtrans-1,2-シクロオクタンジオールに適用すると、目的のtrans-シクロオクテンが得られます。ところがtrans-1,2-シクロヘプタンジオールに適用すると、得られたのはtrans体ではなく、普通のcis-シクロヘプテンでした。
これはいったんtrans体ができ、それがcisに異性化しているのではないか――こう考えたCoreyは、系内で素早く二重結合と反応する試薬を予め加えておくことを考えました。と、見事にtransの付加体が得られ、いったんtrans-シクロヘプテンができていることが実証されました(J. Am. Chem. Soc.; 1965; 87(4); 934-935)。不安定化合物の取り扱い方として、参考になる手法です。
しかし理論計算上では、室温でもtrans-シクロヘプテンは安定に存在できると考えられます。なぜこうも簡単にcisに変化してしまうのか?最近Squillacoteらは、いったん2分子が結合したビラジカル中間体を経て、cisへと異性化する機構を提唱しています(こちら)。ならば例えば下のように、2分子が結合できないように立体障害を大きくすればtrans-シクロヘプテンが単離できたりしないだろうか――などと思うのですが、どんなものでしょうか?
7員環ができるなら6員環ならばどうかと思うところですが、これは残念ながらCorey-Winter反応そのものが進行しません。ということでトランスシクロアルケンは7員環が限界であるようです。
では三重結合を含む化合物ではどうか?安定に存在できるシクロアルキンは、トランスシクロアルケンの場合と同じく8員環が最小であるようです。シクロオクチンは沸点158℃の安定な液体ですが、シクロヘプチンは希薄溶液にしても-25℃で半減期1分以下と極めて不安定です。
シクロオクチン。本来直線であるべき三重結合は、158°まで曲がっている。
ところが反応中間体としては、5員環までのシクロアルキンの存在が確認されています(こちら)。また硫黄を含む環でなら7員環が安定に単離できることも知られていました。ところが最近になり、ジルコニウムを含む5員環アルキンが室温でも安定に存在することが理研の鈴木らから報告されました。こういうものを見ていると、全く常識などというものは覆されるためにあるのだな、と思わされます。
ジルコナシクロペンチン。黄色が三重結合、水色がジルコニウム。
さてこうした研究は実際の役に立つのか、化学者のお遊びに過ぎないのでは――といわれそうですが、つい最近シクロアルキンの実用的な使い道が報告されました。現在急速に応用範囲が拡大している、クリックケミストリーにこれを適用しようというものです。
有機アジド化合物とアルキンは、付加反応を起こして1,2,3-トリアゾール環を形成します。この反応は他の多くの官能基や溶媒に影響されず進行し、収率よくトリアゾールが得られます。また反応後に余計な副生成物ができず、精製を必要としません。さらに、Cu(I)触媒を加えると反応速度は100万倍にも向上し、ほぼ100%の選択性で下図のような1,4-付加体を与えます。
こうした特徴から、この反応を用いれば複雑な化合物に望みの置換基を導入することが容易になり、生化学・高分子化学・医薬品探索などの分野に急速に応用が拡大しています。
ただし前述したように、銅触媒を用いないと十分な反応速度が得られないのはマイナスポイントです。生きた細胞内のタンパクに望みの置換基を結合させるのは大きなニーズがありますが、銅イオンは細胞毒性がありますので、この反応を用いることができません。かといって銅なしでは巨大なタンパク質相手には反応速度が不足し、十分な効率で置換基導入が行えません。
2007年、Bertozziらはこれを解決すべく、アルキン側としてシクロオクチン誘導体を用いることを考えました。すでに50年以上前、Wittigらはシクロオクチンが非常に効率よくDiels-Alder反応を起こすことを報告しており、これをヒントにしたものです。シクロオクチンは強いひずみがかかっていますが、付加体になるとこれを解消できるため、付加環化反応が素早く進行するのです。Bertozziはさらにアルキンの隣にフッ素を導入し、その電子求引性によって反応性をさらに高めることで、銅イオン存在下と同程度の速度でクリック反応を行うことに成功しました。
この方法により、生きた細胞内のタンパクを蛍光ラベル化し、顕微鏡で直接観察することが可能になっています。見事なブレイクスルーであり、今後この手法は生化学分野で多用されることになるのではないでしょうか。このあたりは現代化学 6月号の記事でも詳しく解説しましたので、興味のある方はご覧下さい。
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シクロオクチン誘導体を利用するクリック反応。水色はフッ素。
一見役立ちそうもないような基礎研究が、数十年後に思わぬ形で生きることはよくあります。この場合は高ひずみ化合物の化学という基礎研究と、ケミカルバイオロジーの先端が結びついてのブレイクスルーであったわけで、広い範囲にアンテナを張っておくことの重要さがよく表れたモデルケースであったのでは、と思います。