☆ひずんだ多重結合(1)

 たまにはおもしろ化合物の話題をやれというご要望がありましたので、久々にその方面の話を。

 有機化学の基礎として習う内容の一つに、「単結合は回転するが、二重結合は回転しない」という事柄があります。例えば下図上段の化合物は真ん中の結合が自由に回転できるため左右は同じ化合物(コハク酸、Succinic acid)ですが、下段の化合物は二重結合が回転できないためフマル酸(Fumaric acid)とマレイン酸(Maleic acid)という別物の化合物になります。


 二重結合に含まれる炭素原子(専門的にはsp2炭素といいます)は基本的に結合角が120度を保ち、ひとつの平面に載る形になります。また三重結合に含まれる炭素原子(sp炭素)は一直線になり、いずれも変形しにくい「硬い」結合です。

 が、「変形しにくい」と聞くと「ならば変形させてみよう」と考えるのが有機化学者という人種のようで、いろいろと多重結合をひずませる研究が行われています。一番簡単なひずませ方は、小さな環に組み込んで強引に変形させるやり方です。
 まず二重結合を含む最小の環は何員環か?実は3員環に組み込むことが可能で、当然これが最小のシクロアルケンです。しかしこのシクロプロペンはやはり不安定で、高いひずみエネルギーを内包しているため爆発性を持つ、なかなか怖い化合物です。


シクロプロペン

 ところが自然とは不思議なもので、このシクロプロペン環を持った脂肪酸が天然に存在しているのだそうです。ムクゲの木から分離されるsteculic acidという化合物がそれです。


ステクル酸

 またシクロプロペノン環を持った脂肪酸もあり、これは血液凝固因子に作用して凝血を止める作用があるのだそうです。以前紹介したペンタシクロアナモキシル酸などもそうですが、自然は何のためにこんな変なものをわざわざ作るのだろうと首をひねるようなものが、脂肪酸類の中にはときたまみられるようです。


alutacenoic acid A

 もうひとつひずんだオレフィンとして、架橋構造を持った化合物に組み込まれたものがあります。例えば下図のような化合物では、平面であるべきオレフィンが90°近くまでねじれた形にならざるを得ません。この化合物は反応中間体としては存在しうるものの、単離には成功していません。このように、「ビシクロ系の橋頭位は二重結合に含まれることはない」という規則を、提唱者の名を取って「Bredt則」といいます。


ノルボルネン異性体

 が、何事にも例外はあるもので、天然物にもいくつか反Bredt則化合物が存在しています。最も有名なのが、世界中で激しい合成競争が行われた抗ガン剤・タキソールです。ここでは6員環と8員環ですから、上の化合物などよりだいぶゆとりができていますが、それでもかなりのひずみ具合です。タキソールの合成では、この二重結合をいかに作るかが第一の腕の見せ所となっています。


タキソール。中央上部に橋頭位二重結合がある。

 この他、CP-263,114や、FR182877などいくつかBredt則に反する化合物が見つかっています。いずれも複雑な構造で、多くの合成研究がありますので見比べてみると面白いでしょう。


CP-263,114


FR182877

 ではトランス配置の二重結合ではどこまで小さな環が作れるか?さすがにこれは5員環や6員環では不可能で、安定に単離できるのは8員環のtrans-シクロオクテンが限度であるようです。二重結合もこうなるとさすがに平面にはおさまっておられず、結合角は平面から27度ほどもねじ曲がっていると見られます。


トランスシクロオクテン

 このシクロオクテンで面白いのは、キラリティがあることです。もっと環を大きくした、9員環以上のトランスシクロアルケンには光学活性体は存在しません。なぜ8員環にだけキラリティが生じてしまうかというと、二重結合のために全体が身動きできないほどパンパンになってしまっているせいです。このため下図のような相互行き来ができなくなっており、両者は別々の分子として分離が可能です。9員環以上ではメチレン鎖が縄跳びをするように二重結合の周りを回ってこられるため、こうした現象は生じません。分子模型をお持ちの方は、実際に組んで確かめてみて下さい。

 少々長くなったので続きは次回に。

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