☆アジドの話(2)

 前回書いた通り、アジド化合物には毒性・爆発性のある危険なものが少なくありません。そんな試薬はできれば使わずに済ませたいところなのですが、実はアジド化合物はどこの研究室にも置いてある重要な試薬なのです。必要な分子を組み立てる「有機合成」のジャンルにおいて、アジドは他の試薬では代用の利きにくいユニークな性質をいろいろと持っているからです。

 例えばアジ化物イオン(N3-)はマイナスの電荷を持っていますから、ここにプラスの電荷を持つ炭素を作用させれば両者は簡単に結合します。要するに、炭素骨格に窒素を導入する手段としてアジドは非常に有効なのです。

 また、タンパク質やペプチドなどの構成単位として重要なアミド結合を作るためにも、アジド化合物は活躍します。アミド結合を作る手段は他にもたくさん開発されていますが、アジドを用いる方法は反応性が適度なので余計な反応を起こしにくく、今でも重要な地位を占め続けています。

アシルアジドにアミンを作用させるとアジ化物イオンが脱離し、アミドができる。

 この他アジドが関係する反応はCurtius転位、Staudinger還元、Schmidt転位など数多くあり、今やアジドは含窒素化合物の合成手段として不動の地位を占めているといっていいでしょう。中でも最近注目を集めているのはHuisgen反応、アジドとアセチレンが反応して5員環を形成する反応です。

Huisgen反応。銅イオンの存在下で加速される。

 この反応の特徴は、周辺の環境にほとんど影響を受けないことです。周囲が水であろうが有機溶媒であろうが問題なく反応が進行しますし、アジドもアセチレンも他の官能基とほとんど反応しませんので、タンパク質など複雑巨大な分子がまわりにいても邪魔されることがありません。

 この性質を利用した研究を展開しているのがスクリプス研究所のK.B.Sharpless教授で、彼はこの方法論を「クリック・ケミストリー」と名付けています。シートベルトなどが「カチッ」と音を立ててロックされるように、手軽に丈夫な結合を作るイメージから命名されました。この反応を用い、効率のよいデンドリマー合成や、酵素阻害剤の探索など多方面に渡る成果が次々と報告されています。

 Sharpless教授は不斉エポキシ化など不斉触媒研究の第一人者で、2001年にはこの功績でノーベル化学賞を野依良治教授らと共同受賞しています。しかし現在はこの方面の研究をほとんど引き上げ、新しい分野であるクリックケミストリーの展開に全力を注いでいるとのことです。氏の所属するスクリプス研究所には潤沢な資金の元、有機合成・生化学・分析など多くのジャンルの優れた研究者が揃い、互いにアイディアを出し合いながら次々とコラボレーションが行われ、陸続と新しいサイエンスが生み出されています。Sharpless教授が推進するクリックケミストリーのダイナミックな展開も、こうした環境があればこそなのでしょう。


 このようにアジドの有用性は高まる一方ですが、やはり取り扱いに注意を要する化合物であることには変わりありません。そこで、なんとかその反応性を殺さず安全に扱えるようにする工夫も進められています。

その工夫のひとつがジフェニルリン酸アジド(DPPA)です。この試薬では重原子であるリンの効果によってアジドが安定化されており、爆発性を抑えることに成功しています。古い方法では手間とテクニックを要していたアミド結合生成反応も一段階で手軽に行え、副反応もほとんど起きません。またC-N結合の生成やCurtius転位などの以前は危険であった反応も、DPPAの登場以来ずいぶんと安全に行えるようになりました。日本が送り出した、世界に誇れる合成試薬の一つです。

Diphenylphosphoryl Azide (DPPA)

 


 さて、最後に少々ミステリアスな話を。20世紀最大の化学者は誰か、というのはなかなか難しい質問ですが、Linus Paulingの名はその最有力候補に入ってくることでしょう。「原子と原子がどのように結合しているか」という化学の最も基本的な問題に解答を与え、この功績で1954年のノーベル化学賞を受賞。さらに原水爆禁止運動を展開して1962年のノーベル平和賞をも獲得し、史上ただ一人ノーベル賞を2回単独受賞した人物となっています。タンパク質など生化学分野でも大きな功績を残し、DNA構造の解明では政治的な理由もからんで惜しくもWatson・Crickに功を譲りましたが、これがなければノーベル医学・生理学賞もまた彼のものになっていたとされます。その研究に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、1994年に93歳の天寿を全うするまで生涯を現役の科学者として過ごしました。

 さて彼の死後、彼のオフィスを整理しようと部屋に入った人が、黒板に不思議な分子が描き残されているのを発見しました。これが世に「Paulingのミステリー分子」と呼ばれるものです。

Pauling's mystery molecule

 アジド部分を含め、やたらに窒素原子を多く持ったいかにも奇妙な分子です。そもそも実際に合成が可能なのかどうかすらわからないこの分子を、Paulingは一体何に使おうとしていたのか――。この話題は2000年に雑誌「Chemical&Engineering News」に掲載され、編集部では賞品まで提供してPaulingの意図は何であったか推測するコンテストを行っています。

寄せられた回答は「光で活性化されるタンパク質修飾剤」「DNAを保護するためのフリーラジカル捕捉剤」といった真面目なものから、全くの冗談まで様々でしたが、もちろん真相は天国のPaulingに尋ねてみないとわからないところでしょう。Paulingの1937年に著された本には、この分子によく似た化合物がすでに掲載されており、その共鳴構造について論じられているという指摘もあります。半世紀以上にもわたって世紀の大化学者の胸を占め続けたこの構造の魅力とは一体何であったのか、考えてみるのもまた面白いのではないでしょうか。

 

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