☆サリドマイド復活の日

 「薬害」という言葉をよく目にするようになりました。本来人間の健康を守るはずの薬が、逆に健康を損ない、あるいは死に至らしめる。あってはならないことですが、歴史上幾度も薬害事件は繰り返されています。今回の主人公サリドマイドは、その中でも最も大きな悲劇を引き起こしたことで知られる薬です。

 サリドマイドは1957年、痛み止めあるいは鎮静剤としてドイツのグルネンタール社で開発されました。当初安全な薬剤と考えられて大きく宣伝されたこの薬には、しかし思わぬ落とし穴がありました。この薬を妊婦が飲んだ場合、母体には影響がありませんでしたが、胎児には大きな影響、すなわちアザラシのような手や足を持った「四肢欠損症」の子供が生まれてしまったのです。サリドマイドの薬害は全世界に及び、死産も含めると約5800例、日本でも309例の被害者が発生する事態となりました。

 以前にも触れましたが、サリドマイドの害は「光学異性体」の引き起こしたものでした。サリドマイドには「右手型」と「左手型」の2種類があり(専門的にはR体とS体という呼び方をします)、両者は鏡に映すとぴったり重なり合います。このうちR体は鎮静・催眠作用を持っていましたが、S体の方に思いもかけぬ催奇作用があったのです(注1)。当時はこういった危険が知られていなかったため、両者の混合物(ラセミ体)を販売してしまったのが悲劇の元になりました(R体・S体を分離することは可能ですが、R体は徐々に体内でS体へと変化することが後にわかりました。よってR体だけを服用しても危険は避けられません)。このサリドマイド事件がきっかけになり、新薬の審査基準に、妊婦が飲んだ場合胎児への影響がないか確認すること、またラセミ体の薬の場合はR・S両方の性質をきちんと調べることなどが義務づけられるようになりました。人類は貴重な教訓を得ましたが、そのために支払った代償はあまりにも大きなものでした。

サリドマイド。左が鎮静作用のある(R)体、右が催奇性のある(S)体。


 こんなサリドマイドが復活しようとしている、と言ったら皆さんは驚かれるでしょうか。1998年、サリドマイドはハンセン氏病に伴う皮膚炎の治療薬として、アメリカで販売を承認されたのです。実は30年以上前からサリドマイドは激痛を伴うこの症状に極めて有効であることが知られており、闇でサリドマイドが高値で取引されているという事態がありました。管理なしで危険なサリドマイドが出回っている状態を放置するわけにも行かず、FDAとしても異例の再承認に踏み切らざるを得なかったようです。

 その他にもサリドマイドはいろいろな病気に効く薬として研究が進められています。自分の免疫が自分の体を攻撃してしまう「自己免疫疾患」には難病が多いのですが、このうちベーチェット症候群、関節リウマチ、クローン病、全身性エリスマトーデスなどに適用が試みられています。また試験管内での実験ではエイズウイルスの増殖を抑えたというデータもあり、新たな治療薬として注目が集まっています。

 胎児に奇形を引き起こさせた性質を逆用して、なんとサリドマイドをガンの治療薬に使おうという研究もなされています。サリドマイドには血管が新しく作られるのを防ぐ作用があります。胎児に腕や脚ができる段階で血管が作られないと、その部分に十分栄養が行き渡らなくなり、手足が成長できなくなります。これが短肢症の原因です。

 ガン細胞は急速に細胞分裂するため、盛んに血管を作ってたくさんの養分を引いてこようとします。ここをサリドマイドで叩いてやれば、栄養補給ができなくなってガン細胞は増殖できなくなります。いわばガン細胞に対する兵糧攻めです。ふつうの健康な成人の体内では血管新生はほとんど起こっていないため、サリドマイドはガン細胞だけにダメージを与える、副作用の少ない抗ガン剤になりえます(追記:2005年、「多発性骨髄腫」と呼ばれるガンの一種の治療薬として、日本でも医薬としての申請が行われました)。

 しかし単純な構造のこの薬に、これだけの作用(副作用も含めて)があるというのはなんとも驚くべきことです。人体は極めて複雑なシステムですが、サリドマイドはそのネットワークの重要なポイント、「ツボ」を押さえる薬剤であるようです。そもそも薬の作用とは必ず表裏一体のもので、表面に現れる作用のうち、人間に都合のよいものを「薬理作用」、都合の悪いものを「副作用」と呼んでいるだけのことに過ぎません。中でもサリドマイドはまさしく両刃の剣、あまりに強烈で特異な薬剤といえるでしょう。

 実はサリドマイドは具体的に体のどこにどう作用しているのか、まだ明らかになっていません。体内で化学変化を受け、真に活性のある化合物になっているらしいともいわれていますが、これが何なのかもまだ謎に包まれています。これがわかれば毒性を切り離すこともあるいは可能かも知れませんが、この研究にはまだ時間がかかりそうです。


 今後もサリドマイドの研究は進められることでしょうが、危険な薬剤であることには何の変わりもありません。かつての悲劇を二度と起こしてはならない――といいたいところですが、残念ながらすでにブラジルでサリドマイド症の子供が生まれるという事件が起こっています。ブラジルでは文字の読めない貧困層にハンセン氏病が蔓延しており、そのため政府がサリドマイドを製造して無料で患者に配布しています。このパッケージには「妊婦服用禁止」の絵文字が入れられているのですが、これがかえって仇となり、なんとサリドマイドは妊娠中絶薬と誤解されてしまったのです。こうした新たなサリドマイド症児は60年代から発生して、現在もまだ生まれ続けています。

 いろいろな病気にサリドマイドの使用が認められていくにつれて、こうした危険はさらに増大するものと考えられます。しかし一方にはサリドマイドを必要とする難病の患者がいるのも事実です。とりあえず限られた病気にのみ、しかも厳重な管理の元で−−ということになるでしょうが、ことがことだけに問題は極めて微妙です。

 

 化合物にも運命があるとするなら、サリドマイドほど数奇な運命をたどった化合物はほとんどないでしょう。どうやらそれはさらに今後も変転していく宿命なのは間違いなさそうです。希代の妖刀のようなこの薬の、今後の運命はどうなってゆくのか、なりゆきを注意深く見守っていきたいと思います。

 

(注1)サリドマイドのR体・S体の作用の差は今まで一般に言われてきたことですが、この実験はその後再現性がとれないことが指摘されています。人体内でのラセミ化が予想以上に速いため、両者の活性を区別することが難しいのかもしれません。

 

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