インフルエンザ治療薬の概要
(2009年11月18日、有機合成講習会にて講演した際のテキストを改変したもの。発表資料はこちら(PDF 1.7MB)。
・インフルエンザとは
インフルエンザは、インフルエンザウイルスに感染することによって発症する、急性の呼吸器感染症である。一般に39度以上の高熱、頭痛、筋肉痛、全身倦怠感などの症状を伴う。潜伏期は一般に2〜3日だが、時に10日ほどに及ぶこともある。咳やくしゃみによる飛沫感染の他、肌の接触などによっても感染する。その強い感染能から毎冬集団罹患を引き起こし、学校閉鎖などにつながることも少なくない。
感染者が多くありふれた疾患であるため、ときに「風邪のひどいもの」程度に軽く思われがちでもある。しかし老年層などでは肺炎などを併発して死に至ることも多く、犠牲者は年間1万人から、多い時には5万人にも及ぶことがある。現代の先進国においては最も多くの人命を奪う感染症の一つであり、決して軽視すべきものではない。
その歴史は古く、すでに古代エジプト時代にインフルエンザと見られる病気の流行の記録が残っている。日本でも平安時代には存在していたと見られ、平清盛の死因となったのではないかとする説もある。16世紀イタリアでは、毎年冬になると流行することから、占星術師たちは天体の運行や寒気の影響によってこの病気が発生すると考えた。ここからイタリア語で「影響」を意味する「influenza」(英語のinfluenceに相当)の名が与えられ、世界に広まったと考えられている。
・パンデミック
インフルエンザは特に20世紀に入ってから猛威を振るっており、10〜40年程度の間隔で周期的に世界的大流行(パンデミック)を起こしてきた。中でも有名なのは1918年に発生した「スペイン風邪」である。アメリカ・デトロイト付近で発生した流行の波は世界を2周し、約6億人の感染者と5000万人の死者を出した(患者数・死者数には諸説あり)。当時の世界人口は18億人程度と見られるから、その3分の1が感染し、うち1割近くが亡くなったと推計される。この死者数は同時期に起こった第一次世界大戦の戦死者を上回っており、その終結を早めたとも言われている。地震や火山爆発、飢饉などのあらゆる災害をも上回る、史上最大級の被害を人類に与えた疾患である。
(表1)大流行となったインフルエンザ
発生年 |
名称 |
亜型 |
死者数 |
致死率 |
1918 |
スペイン風邪 |
H1N1 |
5000万? |
8%? |
1947 |
イタリア風邪 |
H1N1 |
|
|
1957 |
アジア風邪 |
H3N2 |
200万 |
<0.2% |
1968 |
香港風邪 |
H3N2 |
100万 |
|
1977 |
ソ連風邪 |
H1N1 |
|
<0.2% |
2009 |
新型インフルエンザ |
H1N1 |
4000以上 |
〜0.1%? |
その後もインフルエンザパンデミックは周期的に発生してきたが、90年代から最も問題視されたのは、東南アジアを中心に蔓延している鳥インフルエンザである。ニワトリなどの家禽や野鳥に発生し、死亡率は極めて高い。現在のところヒトへの感染能は低いが、これまでに世界15カ国で442人が感染、死亡率は60%近くにも達している(スペイン風邪では10%程度)。この強毒性インフルエンザがヒトへの感染能を獲得した場合、被害は計り知れないものになる可能性がある。この現代のペストともいうべき疾患に備え、世界各国で様々な対策が打たれてきた。
・2009年新型インフルエンザの発生
ところが2009年4月、思わぬ場所から新型インフルエンザの火の手が上がった。警戒されていた東南アジアではなくメキシコで、突如として今までに知られていないタイプの流行が報告されたのだ。ウイルスはあっという間に世界を席捲し、4月27日にはフェーズ4、同29日には早くもフェーズ5、6月11日にはついにフェーズ6が宣言され、1968年の香港風邪以来41年ぶりのパンデミックインフルエンザとなった。日本でも防疫に努めたものの、5月初頭には神戸にウイルスが侵入した。感染拡大を防ぐこともかなわず、真夏のインフルエンザ大流行という異例の事態を迎えることとなった。この間、高校野球の選手や応援団、プロスポーツ選手、芸能人にも感染者が多く出るなど騒ぎが拡大したのは記憶に新しい。秋に入っても勢いは衰えず、10月以降は毎週100万人を超える患者が新たに発生する事態となっている。
メキシコでの発生当初、新型インフルエンザの死亡率はスペイン風邪並みの7%とも伝えられ、世界を震え上がらせた。しかしその後症例の把握が進むに連れて死亡率の数字は下がり、現在では0.05%前後と見られている。日本では5月18日に舛添要一厚労相が「危険性は季節性インフルエンザと変わりない」と発言し、一挙に警戒がゆるんだ感がある。しかし0.1%という死亡率は通常の季節性インフルエンザよりもかなり高く、ニューヨークでは6月までに900名が入院、50名が死亡しているなど、決して甘く見てよいウイルスではない。
90年前のスペイン風邪では、流行第1波での死亡率は低かったものの、途中ウイルスが変異を起こし、高病原性となった第2波での被害が大きかったと考えられている。今回の新型インフルエンザも、どのような変異を遂げるか予測はできない。最悪のシナリオは、強毒性のH5N1ウイルスと交雑して強い感染力と高病原性を備えたウイルスができてしまうことと考えられ、厳重な警戒が必要とされる。
(表2)WHOによるインフルエンザの警報フェーズ
段階 |
リスク状況 |
フェーズ |
パンデミック間期 |
ヒト感染のリスク低 |
1 |
動物間に新種ウイルスが存在するが、ヒト感染はない |
ヒト感染のリスクやや高 |
2 |
パンデミックアラート期 新しい亜型ウイルスによる ヒト感染発生 |
ヒト-ヒト感染はないか、極めて限定されている |
3 |
ヒト-ヒト感染増加の証拠あり |
4 |
|
相当数のヒト-ヒト感染の証拠あり |
5 |
|
パンデミック期 |
効率よく持続したヒト-ヒト感染が確率 |
6 |
・インフルエンザウイルスの仕組み
そのインフルエンザウイルスは、どのような仕組みになっているのだろうか。
インフルエンザウイルスは、遺伝子として8本の一本鎖RNAを持ち、これが直径80〜120nmの脂質膜(エンベロープ)に包まれた構造を持つ。タンパク質の抗原性によってA型・B型・C型の3種に分けられるが、B・C型は遺伝子の変異が起きにくいため、多くのヒトが免疫を備えている。このため大流行を引き起こすのはA型のみであり、スペイン風邪や今回の新型インフルエンザもこのA型に含まれる。
A型インフルエンザウイルスの表面には、赤血球凝集素(ヘマグルチニン、HA)とノイラミニダーゼ(NA)という2種のタンパク質が、数百本トゲ状に突き出ている。HAは細胞に感染する際に、NAは増殖したウイルスが細胞を破って脱出する際に主要な役割を果たす。いずれのタンパク質も抗原性を示し、ウイルスの感染・増殖に大きな影響を与える。
インフルエンザウイルスの模式図
これまでHA・NAとも多数の亜型が見つかっており、それぞれH1〜H16、N1〜N9と呼ばれる。その組み合わせによって144種類のウイルスの亜型が存在することになるが、ヒトに感染しうるのは今のところH1N1・H2N2・H3N2・H5N1・H7N7・H9N2の6種類である。スペイン風邪や今回の新型インフルエンザはH1N1、いわゆる鳥インフルエンザはH5N1の型を持つ。
インフルエンザウイルスは遺伝子としてRNAを持つため、コピーの際に修正機能が働かず、変異が起こりやすい。また同じ宿主に多種類のウイルスが感染すると、両者の遺伝子が交雑して新しい型のウイルスを生み出すことがある。特にブタはヒト・鳥両方のウイルスに感染しうるのでウイルスの「ミキサー」として働き、これらが密接して混在する地域は、新型ウイルスの温床となりやすい。今回の新型インフルエンザも、鳥・ブタ・ヒトのウイルスが交雑して誕生したと考えられている。
このようにしてこれまでと異なる抗原性を持つウイルスができると、人々はこれに対応する抗体を持っていないため大流行が発生しやすい。やがてほとんどのヒトが免疫を獲得し、ウイルスの感染するべき宿主がいなくなってしまうまで、大流行は続くこととなる。
・インフルエンザ治療薬
このようにインフルエンザは人類にとって極めて大きな脅威であり、その予防・治療手段は極めて大きな社会的ニーズを持っている。
インフルエンザ対策の基本はワクチンである。完全に感染を防ぐことができるわけではないが、ともかく免疫を持つ人が増えればウイルスの伝播効率を下げることができる。今回の新型インフルエンザでも、国は5400万人にワクチンを用意する方針を固めている。
ただしワクチンのアキレス腱は、供給面にある。ウイルスが分離されてからワクチンが供給されるまでには一定の時間を要し、臨床試験にもそれなりの時間がかかる(4月に発生した新型インフルエンザのワクチンも、供給開始に半年を要した)。このタイムラグを埋めるため、期待されるのがタミフルに代表されるインフルエンザ治療薬ということになる。
古くから用いられているインフルエンザ治療薬として、アマンタジンがある。1960年代に発見され、図のような極めてシンプルな構造を持つ。インフルエンザウイルスのM2タンパク質を阻害し、脱殻を妨げることでその増殖を抑制する。ただし近年では大量使用によって耐性を持つウイルスが増えており、今回の新型インフルエンザもアマンタジン耐性であるとの報告がある。
アマンタジン(1-アミノアダマンタン塩酸塩)
・新規抗ウイルス剤のアプローチ
ウイルスは宿主細胞の機構を乗っ取って増殖する。このため自前で作るタンパク質が少なく、有効な薬の開発は一般に難しい。しかしウイルスのライフサイクル解析が進んだ結果、ウイルス表面のノイラミニダーゼが抗インフルエンザ薬のターゲットになりうることが1970年代に提案された。インフルエンザウイルスはヒト細胞内で増殖するが、その細胞から脱出する時にノイラミニダーゼは主要な役割を果たす。つまりこのノイラミニダーゼを阻害する化合物は、インフルエンザウイルスの増殖を抑え込む有力な薬剤になりうる。
当初は有効な阻害剤の設計戦略は立てられなかったが、徐々に次のようなメカニズムがわかってきた。ノイラミニダーゼは細胞表面の糖鎖のうち、シアル酸を認識して切断する。シアル酸は通常いす型のコンホメーションをとり、カルボキシ基はアキシアルに向いた配座を取っている。ノイラミニダーゼは、このカルボキシ基に3つのアルギニン残基が結合することによってシアル酸の配座をふね型に変形させ、切断する。そこでこのふね型の状態あるいはオキソニウム中間体に似せた化合物、すなわちジヒドロピラン環やシクロヘキセン環を持った化合物が、有効なノイラミニダーゼ阻害剤になりうると考えられた。
モナシュ大学の研究者たちは、当時勃興しつつあったコンピュータによるドラッグデザイン技術を投入し、ノイラミニダーゼ阻害剤の創出に取り組んだ。彼らはシアル酸から脱水した形のジヒドロピラン骨格化合物が弱い阻害剤となるという知見を元に、その阻害活性を強化するアプローチを採用した。X線結晶構造解析の結果、シアル酸の4位周辺には、ノイラミニダーゼのカルボン酸が接近していた。そこでこの部位に陽電荷を持つグアニジノ基を導入したところ、阻害活性が5000倍にも向上することが判明した。この化合物こそが、ノイラミニダーゼ阻害剤として初めて上市された「ザナミビル」(商品名リレンザ)である。しかしこの薬は経口吸収性が低いため、専用の容器から吸入するという形で投与するしかないのがネックであった。
ギリアド・サイエンシズ社では、この点を改良すべく経口投与可能な抗インフルエンザ剤の開発に取り組んだ。同社研究陣は安定性の高いシクロヘキセン環を主骨格として採用し、カルボン酸ユニットは経口吸収性に有利なエチルエステルへと変換することとした。エステル部分は体内で切断され、活性本体であるカルボン酸体を遊離する(プロドラッグ)。こうした工夫によって生まれたのが「リン酸オセルタミビル」(商品名タミフル、製造・販売はロシュ社)である。タミフルは経口投与でも十分な有効性を示し、先行のリレンザを押しのけて抗インフルエンザ薬市場で現在圧倒的シェアを獲得している。
タミフル(オセルタミビルリン酸塩)
・タミフルの供給問題
タミフルの生産は、完全な化学合成によっている。この化合物は分子量こそ小さいものの、コンパクトな骨格上に3つの隣接した不斉中心を持っており、その大量合成は決して容易でない。現在用いられている工業生産法は、天然物であるシキミ酸を出発原料とするルートである。
シキミ酸は芳香族アミノ酸の生合成中間体としても知られ、トウシキミの実(八角)などに多量に含まれる。この化合物は構造的にタミフルとの共通性が高いため、合成原料として好適であると考えられた。
タミフル合成戦略のポイントとして、立体障害の大きい3位の3-ペンチルオキシ基をどのタイミングで導入するかという問題がある。初期段階で結合させると4,5位の窒素置換基の立体選択的導入を妨害しかねないため、ほとんどの合成では後期段階で導入を行っている。ロシュ社ではシキミ酸を原料として選択したため、先に3-ペンチルオキシ基を導入してしまい、4,5位アミノ基の不斉点は元からあるヒドロキシ基を利用する戦略を採用している。11段階30%前後と収率もよく、大量合成も可能な優れたルートである。
シキミ酸からのタミフル合成(ロシュ社)
しかし近年、東南アジア起源のH5N1型鳥インフルエンザの問題が急速にクローズアップされてきた。その対策として各国で備蓄を行おうとしていた矢先、今回の新型が発生した。タミフルはH1N1型インフルエンザに対しても有効性を発揮しており、対策の大きな柱となっている。
その結果、これまでのルートでは出発原料であるシキミ酸の供給がネックとなり、急速に高まる需要に応えられない可能性が出てきた。この解決策としては二つの方法が考えられている。一つはシキミ酸を遺伝子組み換え大腸菌によって大量生産する方法であり、もう一つは入手容易な原料からタミフルを作り出す新規合成ルートを開発することである。こうしたニーズから、世界の合成化学者がタミフル合成に取り組んでおり、日本からも多くの優れたルートが発表されている。これらの研究が、世界へのタミフル安定供給に資する可能性は大いにある。
・待たれる新薬の登場
タミフルやリレンザは新型インフルエンザ抑制に大きな役割を演じているが、大量に使用していればいずれ耐性ウイルスが登場する。それに備えるためにも、新しい抗インフルエンザ薬の研究は不可欠である。
ノイラミニダーゼ阻害剤としては、第一三共のCS-8958、BioCryst社のペラミビル(日本では塩野義製薬が開発)などが臨床試験を進めており、前者は承認申請に近い段階にある。また富山化学のT-705は、RNAポリメラーゼ阻害剤という全く異なる作用機序の薬剤であり、極めてシンプルな構造でありながら優れたウイルス増殖抑制能を発揮し、期待が集まっている。このように異なるタイプの薬剤がいくつも使えれば、今後のインフルエンザに対する備えは大いに強化されることになる。
CS-8958、ペラミビル、T-705
新型インフルエンザの大流行にも関わらず、幸いにも日本ではさほど大きなパニックは起きていない。この原因として、死者数がかなり低く抑えられていることが挙げられる。11月13日時点で、日本全国で738万人の患者が発生していると見られるが、死者数は疑い例なども含めて53名にとどまっている。もちろん医療関係者の努力が大きな要因であり、他にも各種の原因が関与するから、これをもって単純に「タミフルのおかげ」とするわけにはいかない。詳細は今後の疫学的研究を待たねばならないのはもちろんのことである。
ただし、タミフルの投与に消極的であったアメリカでは、日本の25倍ほどの死亡率を記録しており、10月25日にはオバマ大統領が非常事態宣言を出すに至っている。この差は非常に大きく、感染疑いの早期段階で抗インフルエンザ薬を積極的に投与し、重症化を抑え込む日本の作戦も寄与していると見てよいのでないだろうか。一時期異常行動の副作用などが騒がれたが、実際には抗インフルエンザ薬は多くの人命を救い、素晴らしい社会貢献を果たしていると胸を張るべきと考える。
世界を揺るがすインフルエンザ問題に、合成供給・新薬創出の両面で日本の研究が優れた寄与をしようとしていることは、大いに我が国が誇ってよいことであろう。世界トップレベルにある日本の有機合成化学・創薬化学の力を社会に示すよい機会であり、今後のさらなる研究の進展を期待したい。
<参考文献>
インフルエンザ関連:
「新型インフルエンザはなぜ恐ろしいのか
」 押谷仁・虫明英樹 NHK出版
「インフルエンザ パンデミック
」河岡義裕・堀本研子 講談社
「エコノミスト」2009年10月6日号 毎日新聞社
抗インフルエンザ薬合成の総説:Eur. J. Org. Chem. 11, 1827 (2008) M. Shibasaki and M. Kanai