☆タミフル騒動の虚実

 最近医薬の話題で最もマスコミを賑わせたのは、インフルエンザ治療薬「タミフル」(化合物名リン酸オセルタミビル)でしょう。タミフルを服用した10代の患者に窓からの飛び降りなどの異常行動が相次ぎ、うち十数名が亡くなったというものです。発売元の製薬会社や厚生労働省は各種のニュースや週刊誌で集中砲火を浴び、「悪魔の薬」「薬害エイズ事件の再来」といった過激な論調の記事も少なくありませんでした。


タミフル(化合物名:リン酸オセルタミビル)の構造

 中でもタミフル批判の急先鋒となっていたのは「高血圧やコレステロール値は、薬で下げるべきではない」という論調の本を多数出版している医師のH氏で、テレビやラジオなどに何度も出演してタミフルの害を述べ、「医薬としての承認を取り消すべし」――つまり、タミフルを医薬として抹殺すべきであると強硬な論陣を張っていました。出演番組などではおおむね彼の主張を好意的に取り上げ、タミフルの危険性を強調する報道がほとんどであったようです。

 ところが驚かれるかもしれませんが、筆者がこの問題について話を聞いた、薬について専門知識を持つ人々――臨床医・薬剤師・医薬研究者など――の多くは、今後もインフルエンザの治療にタミフルが使用されることを支持しており、マスコミの報道は行き過ぎで問題があると感じているのです。にも関わらずマスコミの論調はタミフル攻撃一辺倒で、これらの意見が電波や活字に乗ったことはほとんどありませんでした。

何しろ多くの方が亡くなっていることでもあり、この問題について語るのは極めて微妙です。特に最愛のわが子を亡くした親御さんに対しては、何ともお気の毒としかいいようがありません。また筆者も製薬会社の一研究員であったという立場上、他社の薬にあれこれコメントするのは問題があるかと思い、これまであまりこの件に深く触れてはきませんでした。しかし単純にタミフルのみを悪役として扱い、まして葬り去ろうとする動きに対しては「ちょっと待ってくれよ」といいたくなるのです。筆者も医者ではありませんので必ずしも十分に責任あることはいえないのですが、少なくとも十数年医薬品研究に携わってきた者が、現状のデータを見て下した判断はこのようなものです。

(1) いわゆる異常行動はインフルエンザの症状としても起こることであり、タミフルのせいであるかどうか判別は今のところ難しい。

(2)タミフルは脳に入り込みにくい薬剤であり、直接脳に影響を与えることは考えにくい

(3)たとえ異常行動が全てタミフルのせいであったとしても、タミフルによって失われる生命より救われる生命の方が遙かに多い。鳥インフルエンザの死亡率は60%、通常のインフルエンザで死ぬ率は数千分の1、タミフルを飲んで転落死する確率は200万分の1である。

詳細を以下に順を追って述べますので、なるべく先入観を捨てて読んでいただきたく思います。なお、筆者はある製薬会社で長年研究に携わってきましたが、タミフルの製造元・発売元の会社などに所属したことはなく、過去にも現在も何の利害関係も持っていないことを念のためにお断りしておきます。


 タミフルがまず脚光を浴びたのは、鳥インフルエンザに関する話題からです。現在東南アジア付近を中心に発生している強毒性の鳥インフルエンザウィルスが近い将来変異を起こし、ヒトからヒトへの感染能を獲得してしまうのではないかと恐れられているのです。現在は鳥からヒト、あるいは他の動物を経由したと見られるルートでの感染が確認されており、すでに東南アジアを中心に世界14カ国で348人の患者が発生し、うち216名が亡くなっています(2008年1月3日現在。最新の情勢はこちら)。ヒトからヒトへの感染と疑われるケースもすでに発生しており、いつアウトブレイクが起こってもおかしくないと思える危険な状況です。

1918年から1919年にかけて流行したインフルエンザ(通称スペイン風邪)は当時の世界人口812億人の50%以上が感染し、5000万人もの人が犠牲になったと推定されています。再びこうしたパンデミック(世界的流行病)が発生した場合、飛行機など交通手段の発達した現在ではものの45日でウィルスは世界に伝播すると考えられ、一地域にとどまらない全世界的な対応が必要とされます。

 インフルエンザ対応策の基本はワクチン療法ですが、これはウィルスが出現してからでないと作成できず、また供給に半年ほどの時間を必要とします。その間のつなぎとして期待されているのが、抗ウィルス剤「タミフル」であるわけです。タミフルはウィルスが増殖するのに必要な「ノイラミニダーゼ」という酵素の働きを抑え、その増殖を抑制する薬です。十分な量のタミフルを確保することができれば、鳥インフルエンザによる死者・入院患者は3分の1に減らせるという予測もあり、現在最も効果が期待できる薬剤と考えられています。このため現在世界各国がタミフルの備蓄を進めており、日本でも2500万人分を確保する計画となっています。

ノイラミニダーゼのターゲット、シアル酸。細胞表面に存在する。タミフルはこれに似せて作られており、ウィルスのノイラミニダーゼを「だまして」結合し、増殖したウィルスが細胞から放出されるのを防ぐ。

 そのタミフルに副作用の問題が浮上してきたのは、200511月のことでした。インフルエンザ患者の少年がタミフル服用後に自らトラックに飛び込むなどの異常行動を起こし、2名が死亡したというものです。その後10代の若い患者を中心に異常行動などの報告例が増え続け、マスコミの報道もそれに合わせてヒートアップしていきました。厚生労働省ではしばらく「タミフルとの因果関係の特定は困難」としてきましたが、世論の高まりを受けて20073月に「因果関係は不明であるものの、10代の患者へのタミフル使用を差し控えるよう」通告する事態になりました。

 こうして使用制限がなされるまでの間に、タミフル服用後に異常行動(ベッド上で飛び上がった程度のものまで含めて)を起こした人数は186名で、うち8割が10代の若い患者でした。うち十数名が、窓からの転落死などによって亡くなっています。

 これだけの「被害」が出ていて、なぜタミフル擁護の論を述べようとしているのか?まず第一に、こうした異常行動はインフルエンザ単独の症状としてもまれに起こることがわかっています。こうした「インフルエンザ脳症」による異常行動であるのか、タミフル服用による症状であるのか、区別をつけるのは非常に難しいことなのです。「インフルエンザではないのにタミフルを服用して異常行動が出た」例が大きく報道されましたが、一方で「タミフルを飲んでいないインフルエンザ患者が窓から飛び降りた」という事例も報告されています。また扁桃腺炎で高熱を出した小児が異常行動を起こした(もちろんタミフルは不服用)ケースなどもあり、こうした症状はいわゆる「熱に浮かされた」状態としてまれに起こりうることなのです。

また横浜市立大の横田俊平教授の研究では、異常言動の発現率はタミフル服用者で11.9%、非服用者で10.6%と微増していますが、統計学的にはこの数字では因果関係があるとはいえず、偶然変動の範囲内と見られます。また三重県のある病院では、異常行動を起こしたインフルエンザ患者が一冬に14人入院しましたが、うち6例は抗インフルエンザ薬投与前に異常行動が起こっていたということです。

 第二に、タミフルは非常に脳に入り込みにくい薬である点が挙げられます。摂取した薬剤は血液に乗って全身に運ばれますが、脳と血管の間には「血液脳関門」と呼ばれる仕組みがあり、タミフルのような極性の高い分子を通さないようになっているのです。というより、タミフルは脳に侵入して余分な作用を及ぼすことがないよう、血液脳関門を通らないような構造に設計されているという方が正確なところです。実際、20067月にタミフルを飲んだ後で転落死した少年の遺体を解剖した結果、血液中には十分な量のタミフルが存在したのに、脳からは全く検出されませんでした(注1)。また、脳内の主要なタンパク質155種についてタミフルと相互作用するものがあるかどうか試験が行われていますが、強く結合して影響を与えるものは見つかっていません。

前述のタミフル承認取り消しを主張するH医師は、ラットに体重1kgあたり700mgのタミフルを投与すると、中枢抑制作用・異常行動・突然死などを起こすことを示しています。しかしこれは通常の350倍以上の濃度のタミフルを、血液脳関門など防御機構の完成していない幼若ラットに与えた結果であり、現実の薬剤の使われ方とはかけ離れた条件であるためあまり有力な証拠とは言い難いものです(脳にタミフルが入り込むメカニズムが解明されたという報道が最近ありました。これについては後述します)。

こうしたことを考え合わせると、少なくともタミフルが脳に入り込んで、直接何らかの作用を及ぼしている可能性は高くないと見られます。もちろん、タミフルの刺激によって何らかの体内物質が作られ、これが脳に影響を及ぼすといった間接的な作用の可能性は否定できませんが。

 そして何より重要なのは、もし報道されたような異常行動が全てタミフルのせいであったとしても、十分な注意を払って使う限りその利益はリスクを補って余りあると考えられる点です。

 まずリスクの方ですが、これまでタミフルの服用者はのべ3500万〜4500万人ほどと見られています。一方異常行動の報告は200件弱、転落死者は20人弱ですから、異常行動を起こす確率が20万分の1、転落死する確率が200万分の1程度ということになります(多くの場合、マスコミの報道では「分子」の数だけが語られて、「分母」がこれだけ巨大な数字であることが見落とされています)。この200万分の1という確率は、交通事故で死ぬ確率1万分の1、飛行機事故で死ぬ確率50万分の1よりも十分に小さい数字です。そして飛行機事故はいくら気をつけていても防ぎようがありませんが、タミフルによる転落死は周囲で気をつけていればかなりの割合で防げるリスクです。

 しかしいくらリスクが小さくても、利益がそれを上回らなくては何もなりません。そして各種データを見る限り、タミフルによるインフルエンザ治療は十分有効であると考えられるのです。

 先のH医師は、「インフルエンザもかぜも、暖かくして安静にしていれば自然に治まる病気」「タミフルはインフルエンザの症状が消えるのが平均1日早くなる程度」と述べていますが、これはとうてい正しい認識とは言えません。一度でもかかったことのある方ならご存じの通り、インフルエンザは発熱の度合いも期間も風邪とは全く異なり、同列に語ることのできる病気ではありません。流行する型によっても異なりますが、インフルエンザによって亡くなる人は国内だけで年間数千人に上り、インフルエンザに併発する肺炎によるものを含めれば死者は1シーズン5万人に及ぶこともあります。もちろん高熱などによって、重い後遺症が残ることも少なくありません。

 そしてタミフルをきちんと服用することにより、インフルエンザによる死亡率を大幅に低下させることができるという報告が、複数のグループからなされているのです。またかつては高齢インフルエンザ患者のうち約20%が肺炎へ進行していましたが、タミフルの登場以降この数字は5%を切るようになっています。タミフルの承認を取り消すということは、こうした恐ろしい病気であるインフルエンザの有効な治療手段を奪い去ってしまうことなのです。もちろん単純に罹患期間が短くなることで患者の身体的、経済的負担が減ること、他人に感染させる確率が下がることなどの効果も見逃せないでしょう。このようなことから筆者は、通常のインフルエンザに対しても、タミフルは十分な医療効果を見込める薬であると考えています。

 ただし、異常行動の発生が10代の患者に集中していることは、確かに気がかりではあります。先日「ある体質の人でタミフルが脳に入る機構が解明された」というニュースがありましたが、確かに年齢・体質・環境など特殊な条件などが重なることによって、タミフルが危険な症状をもたらす可能性は完全には否定できません。何より、実際に多数の人命が失われている事実はいうまでもなく極めて重大です。またインフルエンザそのものによる死亡者は老年層に多く、10代ではかなり稀であるということもあります。こうしたことなどを考え合わせると、「因果関係は不明だが、10代への使用を規制する」という厚生労働省の判断は、あの時点においては妥当であったのではないかと思います。ただしなぜあの時期であったのか、他の人には安全なのかなどといった点について、国から十分な説明がなかったようであるのは大変残念なことであると思いますが。

 ただしこれは通常のインフルエンザに関してのことで、遙かに高い危険性が予測される鳥インフルエンザに対しては全く話が別です。ウィルスの変異は速く、またランダムなので、鳥インフルエンザがいつ変異を起こしてヒトへの感染能を獲得するか、そうなったとき死亡率はどのくらいなのか、タミフルがどこまで効くかなどは誰にも予測できません。しかしいつかは大流行が起こる確率はかなり高いと思われ、死亡率は現在のところ60%を超えています(スペイン風邪SARSはいずれも10%前後)。異常行動で転落死を起こすリスクとは、全く比べものにならないほど危険な病気なのです(注2)。

 また鳥インフルエンザは通常のインフルエンザとは逆に、10代から30代までの若年層の死亡率が高いという特徴があります。これは鳥インフルエンザがスペイン風邪などと同じく、「サイトカインストーム」と呼ばれる症状を引き起こすためと考えられています。これは免疫系が暴走して自らの臓器を攻撃する現象であるため、若く免疫系が活発な人ほど症状が重くなる危険が高いのです。こうしたことを考えると、現時点では鳥インフルエンザに対しては10代であろうとタミフル服用をためらう理由は何もありません。まして承認取り消しなどは、何百万の命を救えるかもしれない数少ない手段を、自ら放り捨てることに他なりません。

厚生労働省は、一部の医師が主張したからといって、タミフルの承認を取り消すほど愚かではないと思います。しかし厚労省の信用は昨今の薬害肝炎事件などで大いに失墜していますし、昨今のマスコミ挙げての危険報道ばかり聞かされていると、鳥インフルエンザが流行しても異常行動怖さにタミフルを飲まない人、我が子にタミフルを飲ませない親が出てくる可能性は大いにありそうです。もしそのために被害が拡大するようなことがあれば、安易な刺激や数字だけを求め、危険を煽るだけ煽った大新聞やテレビの大罪というべきでしょう。

最近、「週刊ダイヤモンド」にこんな論説が載りました。「問題は大流行が予測される新型インフルエンザだ。致死率が高い新型インフルエンザにはタミフルやリレンザ(注3)が有効と予測されている。親は子供の異常行動のリスクと死のリスクを天秤にかけて判断を下さねばならないことがあるかもしれない」――。

一流経済誌の記者であっても、「タミフルは危険な薬」という刷り込みが一度なされると、こんな単純な数字の比較もできなくなるのかと悲しくなります。実際には何度も述べている通り、天秤も何もないというくらい危険度が違います。

 やや大ざっぱで、今のところ不確実な点も多いことは承知の上で、わかりやすさのために以下の数字をもう一度挙げておきます。鳥インフルエンザの死亡率は60%、通常のインフルエンザで死ぬ率は数千分の1、タミフルを飲んで転落死する確率は200万分の1です。

 1225日、厚生労働省の調査班は、「18歳以下のインフルエンザ患者1万人を対象にした大規模調査の結果、タミフル使用者のほうが非服用者に比べて異常行動は少ない」という結果を発表しました。しかし一度染みついた「危険な薬」というイメージは、そう簡単にぬぐい去れるものではないでしょう。とりあえずは鳥インフルエンザのアウトブレイクが起こらないことを、もし起こった時には、正しい情報に従って皆が冷静に行動してくれることを、筆者としては切に祈るばかりです。

(注1)タミフルはエチルエステルという原子団を分子内に持っており、このエチル基が体内の酵素の作用で切断されて、抗ウィルス作用を持つ活性本体が発生するようになっています。少年の脳内からは、タミフルそのものも、活性本体も検出されませんでした。
(注2)厚生労働省では、今のところ鳥インフルエンザがこれからヒトで流行した際の死亡率を、3%とかなり低めに見積もっています。これがどのような根拠で出てきた数字かはわかりませんが、現状では高くなるか低くなるか予想は全くつけられません。むろん3%であっても、転落の危険とは比較にならないことは言うまでもありません。
(注3)リレンザはタミフルと同じノイラミニダーゼ阻害作用を持つ抗インフルエンザ薬。飲み薬ではなく、吸入によって投与されるタイプのため、シェアはタミフルの1/10程度にとどまります。こちらにもタミフルと同程度か、やや高い確率で異常行動の発生が観察されています。


 有機化学美術館トップに戻る