☆ステロイドの話(その2)

 1993年10月ロンドンのホテルで、アメリカのプロレスラーセッド・ビシャスが同僚のアーン・アンダーソンをハサミでメッタ刺しにし、胸や腹を合計18針縫う大ケガを負わせるという事件が起きました。これだけのことをした原因はといえば、彼の遅刻癖を注意したアンダーソンにビシャスが腹を立てた、というただそれだけのことでした。ビシャスは筋肉増強剤の副作用で、自分の感情をコントロールできなくなっていたのです。

 ステロイド化合物の重要なものの一つに、性ホルモンがあります。男性は男性らしく、女性は女性らしい体になるのはこれら性ホルモンの働きによるものです。下に代表的な性ホルモンであるテストステロンとエストラジオールの構造を示しておきます。

テストステロン(男性ホルモン、左)とエストラジオール(女性ホルモン、右)

 見ての通り、両者の構造は一見すると区別がつかないくらいにそっくりです。これだけの差が男性と女性の違いをもたらすわけですから、なんとも不思議という他ありません。ちなみにエストラジオールは体内でテストステロンから合成されます。ちょっとアダムとイブの神話を連想させなくもありません。

 男性の体つきの特徴といえば筋肉質であることでしょう。実際、テストステロンはタンパク質の合成を促進し、筋肉を作らせる作用があります。つまり男性ホルモンは筋肉増強剤として使えることになります。実際には飲み薬として使えるよう改良された、メチルテストステロンやスタノゾロールなどと呼ばれる薬が用いられます。

 1988年のソウルオリンピック100m走で、世界新記録を出して優勝したベン・ジョンソンが薬物使用でメダルを剥奪された一件は世界に大きな衝撃を与えましたが、この時用いられていたのがほかならぬスタノゾロールでした(当初この薬の名前を「スタノゾール」としていましたが、「スタノゾロール」が正しいという指摘を高山短大の桜井教授からいただきました。ありがとうございました)。

メチルテストステロン(左)とスタノゾロール(右)

 飲むだけで手軽に筋肉がパワーアップできるわけですから、スポーツ選手にとってはまさに夢のような薬です。しかし極めて怒りっぽくなるという副作用があり、冒頭に挙げた事件はこのために引き起こされました。さらに長期的な投与は内臓疾患、脱毛(頭頂部から髪が抜けるという特徴的なハゲ方をします。といえば、プロレスに詳しい人なら何人か思い当たるのではないでしょうか)、ついには腰の骨が溶けるといったすさまじい症状をもたらします。

 (2007年6月には、世界王座戴冠経験もある名レスラー・クリス・ベノワが、自宅で妻子を殺害した上自らも後を追って自殺するという衝撃的な事件を起こしています。努力家として知られ、「最も尊敬されるレスラー」「ナイセスト・ガイ」と呼ばれた彼のあまりに唐突かつ不可解な凶行は、大きな波紋を呼びました。現在のところこの件に関しても、筋肉増強剤の過剰摂取の副作用による抑鬱症状が原因という説が有力になっています。)

 30代後半になってから突然体格が巨大化し、ホームランを量産し始めたバリー・ボンズ、それまでの世界記録を0.3秒近くも上回る新記録を叩き出しながら、わずか38歳で突然死したフローレンス・ジョイナーなど、ステロイド疑惑をささやかれるアスリートは少なくありません。「筋肉増強剤といっても元々体内にある物質を体外から補給しているだけから問題ない」という声もありますが、実際の副作用を見る限りそのような議論は成り立たないことは明白でしょう。到底そのリスクに見合うものではありませんが、一時の栄光を求めて手を出す選手は後を絶たないようです。

 

 性ホルモンといえば、環境ホルモンの話に触れないわけにはいかないでしょう。もともとホルモン分子ではないのに、体内に取り込まれると女性ホルモンと同じ働きをして様々な悪影響をもたらす一群の物質のことです。一例としてフタル酸ジエチルとDDTを挙げておきましょう。一見してあまり女性ホルモンには似ておらず、実際エストラジオールに比べれば数十分の一から数百分の一という活性しかありません。しかしホルモンは極めて微量で効果を発揮する物質であるため、この程度の活性でも人体に様々な悪影響を呼び起こします。

 (追記):このうちフタル酸ジエチルについては、最近の研究でほぼ害はないという結論に落ち着きつつあるようです(こちらもご参照下さい)。またザクロブーム終結後、大豆イソフラボンもブームになりました。これも今のところ賛否両論あるようです。

 

フタル酸ジエチル(左)とDDT(右)

 

 さて、つい最近ザクロがブームになりました。ザクロには天然の女性ホルモンそのものが含まれており、これが肌のツヤやスタイルの維持によいという理由でした。

 筆者はこの分野の専門家ではありませんが、このブームには疑問を感じます。女性ホルモン作用を持つ環境ホルモンが悪影響をもたらすなら、ザクロだって男性が食べれば精子数の減少、女性が食べれば乳ガンの危険が増すはずなのではないでしょうか。しかもザクロに含まれる女性ホルモンは、環境ホルモンとして問題となっている物質の数十倍から数百倍強力です。人間の体は、元が体内物質である女性ホルモンを処理する機構を持っているとはいえ、これだけ強力なホルモンを大量に取り入れるのは問題なのではないかと感じます(このあたり、詳しい方がおられたら御教示願いたいと思います)。

 もっとも、最近の食品衛生局の発表によれば、ザクロには良くも悪くも人体に影響があるほどの女性ホルモンは含まれていないとのことです。これによりザクロブームも去ったわけですが、それにしても同じ作用をするものを、「天然由来」となれば皆が争って買い、「人工の化学物質」となれば顔をしかめて逃げまどうというのもおかしな話です。筋肉増強剤の例でもわかる通り、いくら元が体内にある物質でも度を越して摂取すれば悪影響は起こり得ます。「天然」なら何でも善、「化学」「合成」とつくものは何でも悪、というのは極めて大ざっぱな暴論でしかありません。イメージに踊らされず、正しい知識を身につけることが肝心だと思います。

 

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