☆臭い化合物の話

 これまで数々の美しい分子、変わった分子、面白い機能のある分子を紹介してきました。ではその新しい分子たちを作り出している現場、有機化学の研究室というのはどんなところなのでしょうか?これが実際にはけっこうな修羅場です。

特に大学の研究室は朝から晩まで実験、実験で肉体的にも精神的にも相当にきつく、男ばかりであまりうるおいのない環境なので、片づけも行き届かず汚くなりがちです(まあ筆者の出た研究室が特別にその傾向が強かったという話もありますが)。よく嫌われる職場の条件で「3K」などといいますが、有機の部屋の場合はきつい、汚い、危険、厳しい、苦しい、臭い、体に悪い、給料がない、教授が恐い、彼女ができない、などなど簡単に8Kや10Kくらいいってしまいそうです(笑)。

 まあきつさ、汚さ、厳しさなどは先生の性格によってもずいぶん左右されるでしょうが、「臭い」という項目に関してはおそらくほとんどの有機の研究室に共通だと思われます。よく人間の鼻は退化しかかった感覚器官だなどと言われますが、実はこれでなかなかバカにできたものではなく、化合物によっては空気中に数億分の1混じっただけでも存在を感知できるといわれます。これは現代の最新鋭の分析機器でもなかなか太刀打ちできないレベルです。

化学の実験ではこうした物質を純粋に取り出して使うわけですから、場合によっては耐えられないほどの悪臭に悩まされることもあります。例えばピリジンという化合物はいろいろな実験に汎用される便利な有機溶媒なのですが、筆者が研究室に入った当初はどうしてもこの臭いになじめませんでした(どういう臭いかと聞かれても似た臭いがないので、「ピリジンの臭い」という他ないのですが)。しまいには吐き気を催し、真剣に研究室をやめようかとさえ考えたことがあります。

pyridine。適当な塩基性と優れた溶解性を持つため、溶媒・試薬として多用される。

まあ10年選手となった今では、そんなピリジンを平気な顔で毎日ザバザバと大量に使っているから慣れとは恐ろしいものですが(会社の方が換気設備がしっかりしているということもあります)、場合によっては悪臭というものは若手研究者の研究意欲さえもそぎかねない、なかなか恐ろしいファクターであるともいえます。


 臭いと構造はある程度関連があり、エステルやアルコールを含むものは一般的に比較的よい香りがするのに対し、カルボン酸(-COOH)、アミン(窒素化合物)、硫黄化合物などはたいてい耐え難い悪臭がします。リンやスズなどを含む化合物も一種異様な、表現のしようのない異臭がしますが、日常生活で出会う臭いといえば先の3つが代表的でしょう。

 カルボン酸のにおいというのは炭素鎖の長さによってもずいぶん変わりますが、一般的に「動物的な臭い」と表現できると思います。例えばシクロペンタンカルボン酸(下図)という化合物などはまさしく濃縮した足の臭いそのもので、我々は通称「足の裏酸」と呼んで恐れています。

cyclopentanecarboxylic acid

 ヨーロッパのチーズには非常に香り高い、というよりはえらく臭いものがあります。ある詩人はこのにおいを「神の足の香り」と表現したそうですが、分析の結果ではこの種のチーズのにおいの主成分は炭素数が4つのカルボン酸、酪酸であるといいます。なんでも足の爪の間にたまる垢の抽出物にも同じ化合物が含まれているそうですから、詩人の表現もあながち間違いではなさそうです。

butyric acid。「butter」と同系列の言葉から来ている。

 ちなみに銀杏の実のあの臭気は、これより炭素鎖が2〜3個長い、ヘキサン酸やヘプタン酸が主成分とのことです。しかし一体何が悲しくて爪の垢だの銀杏だのの臭いを分析しようと思うのか、人間の探究心というものは何とも計り知れないもののようです(^^;。


 トリエチルアミン、ピペリジンといったアミン類(含窒素化合物)も実験にはよく用いられるのですが、実際にはなかなかやっかいな試薬です。こいつらは実に恥ずかしい臭いがするからで、まあはっきり言ってしまえば精液の臭いがするのです。うっかり服につけてしまい、気づかずに電車にでも乗ってしまえば変態扱いを受けることまちがいなしという恐ろしい化合物です(実例をひとり知っています)。

トリエチルアミン(左)とピペリジン(右)

 実を言うと臭いが似ているのも当然で、精液の臭いの元となる化合物もピペリジンなどと同じアミン類なのです。長い鎖の中に窒素をたくさん持った化合物で、その名もスペルミジン・スペルミンなどといった、なかなか遠慮も会釈もないネーミングがなされています(なお実際の精液の臭いは、これらのアミンの分解物によるものとされています)。

spermidine(上)とspermine(下)

 実のところこれらの分子はDNAと相互作用し、その遺伝情報の読み出しなどに密接に関わる重要な化合物でもあります。しかし精液にここまで大量に含まれているのはなぜかわかっておらず、その理由を専門として研究している先生もおられるとのことです。これも端目にはなかなかたまらん研究テーマではありますが、まあ人間とは何でも知りたがる生き物なのだ、ということにしておきましょう(^^;。

 余談ながらもう一つ直球勝負のネーミングとして、「スカトール」という化合物があります。何の臭いであるかはいうまでもないでしょう。

skatole


 硫黄化合物も悪臭としては代表的なものです。いわゆる温泉や火山の臭いが硫化水素(H2S)ですし、ニンニクのあの臭いの主成分(アリシン)も硫黄を2つ含む構造です。ニンニクの粒の中では無臭のアリインという化合物として存在していますが、切ったり刻んだりして空気に触れさせるとアリイナーゼという酵素の働きによってアリインがアリシンに変わり、あの臭いを発生させる仕掛けになっています。

allicin。「アリル基」という名はこの化合物が語源。

 ジメチルスルフィド(下図)は「磯の香り」として以前紹介しました。「濃縮したのり塩のポテトチップのにおい」というのがわかりやすい表現かと思います。実際いわゆる「磯の香り」は、海草類が放出するジメチルスルフィドの臭気であることがわかっています。

dimethylsulfide

 この臭いは、有機合成の研究室ではおなじみの臭いでもあります。Swern酸化という反応の時に、このジメチルスルフィドがたくさん副成してくるからです。アルコールをケトンへと変換する反応は極めて重要な基本反応の一つですが、以前はクロムなどの有害な重金属試薬に頼らざるを得ませんでした。1970年代にSwernによって開発されたこの反応はこうした廃棄物を出さず、広い範囲の化合物に使用可能で、過剰酸化を起こさないなど多くの長所を合わせ持ち、現在ではすっかり酸化反応の主流を占めるようになりました。唯一の問題がこの悪臭ということになるわけですが、反応を終えてフラスコを開けた時にこの臭いがするとうまくいった証拠でもあるので、我々実験屋としてはちょっとほっとさせられる臭いでもあります(とはいえこの反応では一酸化炭素も同時に生成するので、深く吸い込むなどは論外です)。

 

 ところで世界で最も臭い物質とは一体何でしょうか?ギネスブックには、エタンチオール(エチルメルカプタン)という、やはり硫黄系の化合物がそのチャンピオンとして収載されています。

ethylmercaptan

 チオール(SH基を持つ化合物)は鼻を刺すような強い刺激臭を持ち、低濃度では都市ガスの臭いがします。というより洩れてもすぐわかるよう、都市ガスには微量のチオール(tert-ブチルメルカプタンとジメチルスルフィドの混合物)を混ぜて臭いをつけてあるのです。

 筆者が研究室に入りたての頃、このエタンチオールを外に漏らしてしまう失敗をしたことがあります。何せ臭い物質なので、どんなに丁寧に扱っても多少の臭いが漏れるのはやむを得ないのですが、この日は風向きが悪かったのか、大学生協の売店の方まで臭いが流れていってしまったのです。当然店内ではガス漏れではないかと騒ぎになり、発生源を探すやらあわてて火の気を消して回るやらの騒動になってしまいました。当の発生源の方はその頃はすっかり鼻がバカになり、騒ぎも知らずのんびりと実験していたのですが(笑)。この後でこってりと教授に油を絞られ、以後チオールを使う際には周りの部屋に連絡してから、ということになってしまいましたが、まあ今となってはいい思い出(?)ではあります。

 

 

 というわけで今回は、我々実験化学者の周りは臭い化合物でいっぱいであるという話でした。まあこれだけ読んでいると、有機化学の連中は臭い汚い研究室にこもって、毎日朝から晩まで実験実験でよく続くもんだな、と不思議がられることと思います。それでも研究を続けていられるのはその苦労を上回る喜びもあるからで、思い通りの反応が進行した時、誰も知らない事実を自分一人が掴んだと確信した時、世界中でここにしかない化合物を自分の手で生み出した時……。めったにないけれど、報われたと思える瞬間も確かにあるからこそ、この仕事を続けていられるというわけです(まあ本当にめったにないですけれど(笑))。

 最近はバイオや遺伝子関係が人気で、優秀な学生はみなそちらに流れてしまうという声も聞きます。確かにこれらは今一番アクティブで面白い分野ではありますが、有機化学ならではの創造する喜び、というのも確かにあり、我々が実際に作った化合物なしでは何も始まらない、という自負もあります。めったにない報われる時を求めて、今この瞬間も世界の津々浦々で実験屋は黙々とフラスコ相手に格闘しているはずです。

 

 

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