Molecule of the Week (31)

ブルバレン(bullvalene)

 有機化合物の中には、まるで手品を見るような変身をみせる分子もあります。今回のブルバレンはその代表格とも言える化合物で、(CH)10の構造を持ったかご状分子です。

Cope転位と呼ばれる反応があります。下のように6炭素鎖の両端に二重結合を2つ持った化合物は、赤の実線の結合が切れて黄色の点線のところで新しい結合を形成し、2つの二重結合が移動する反応を起こすのです。この場合元の分子とできた分子は結果的に全く同じ化合物ですが、同じ分子の向きが変わったのではなく、結合が一方で切れて一方でつながるという組み替えが起こっているわけです。

Cope転位

 さて上のブルバレンにも「6炭素鎖の両端に二重結合を2つ」含んだ部分があります。これがCope転位を起こすとどうなるでしょうか?

 Cope転位によって下の実線部分(3員環のところ)が切れて、上の点線部分に新しく結合ができます。と、できたのはなんと上下がひっくり返っただけの同じブルバレン分子ということになります。いわば3次元型の「だまし舟」のような反応ですが、どうなっているかご理解いただけるでしょうか?

ブルバレンには3ヶ所の二重結合がありますので、これらがどの組み合わせでもCope転位を起こし、温度を上げると転位はさらに加速します。「NMR」という水素原子の様子を観察できる機械で測定すると、低温では4種類の水素原子のピークが観測されるのに、温度を上げていくとこれらが徐々に溶け合い、120度ではついに1本のピークだけが観測されるようになります。いってみれば、四角い板を回転させるとだんだん輪郭がぼやけてゆき、ついには丸い板にしか見えなくなるというのに似た現象と言えるでしょうか。

 このブルバレンの性質は1963年にDoering教授が予言し、Schroederが実際に合成してこれを確認したものです。Doeringは後に、自らも違うルートでブルバレンを合成しています。


 ところでこの「bullvalene」という名前はどこから来たのでしょうか?これはDoeringの学生が、師に「The Bull」(雄牛)の愛称をつけていたことからなのだそうです。それ以前にDoeringは「フルバレン」(下図)という化合物を合成したことがあり、これにひっかけて学生が上の分子を「ブルバレン」と冗談で呼んでいたのを、Doeringが正式に採用して論文にしてしまったというのが真相なのだそうです。

fulvalene

 ちなみに下の分子はブルバレンから二重結合をひとつ取り去ったような構造ですが、こちらは「calfene」と名付けられています。bullの小型版だからcalf(子牛)というわけで、化学者にもなかなかシャレの利いた人物がいるというよい例です。これも「親牛」同様、Cope転位によって構造の入れ替わりが起こる「揺動型」化合物のひとつです。

calfene(またはsemibullvalene)


 なお、Doering教授は1944年にWoodward教授と共にキニーネの全合成を達成した人物です。同年生まれの僚友Woodwardが62歳で世を去ったのに対し、Doeringはなお健在で、88歳の今も現役研究者として一流学術誌に論文を発表し続けています。「なぜ彼がbullというあだ名になったかは諸説ある」そうなのですが、この衰えない精力、パワーこそはまさに「bull」の名にふさわしいものだったのではないでしょうか。

 

 Tetrahedron 1963, 19, 715 W. von E. Doering et al.

 参考:「化学者たちのネームゲーム」(化学同人)

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