☆昆虫〜小さな化学者たち〜(1)

 以前、昆虫のフェロモンの話について取り上げました。しかし昆虫は単に異性を引き寄せるだけでなく、交信・防御・攻撃など化学物質を様々に使いこなしています。今回はそんな昆虫の使う化合物の話を。


 脊椎動物界で最強の動物といえばもちろん人間ですが、無脊椎動物ではどうでしょうか?意外なことに、これはアリなんだそうです。アフリカに住む軍隊アリなどは、象であろうがライオンであろうが出会う動物は何でも攻撃して巨大な顎で噛み刻み、丸一日で白骨だけにしてしまうので、ジャングルを歩くにあたって最も警戒すべき生物だと言われます。

 ひとりひとり(一匹一匹)は大して強い生物でもない人間とアリが「最強」である理由は、なんといっても「社会」を作って集団で暮らしているからです。人間には「脳」があり、ルールによって社会を構成しますが、アリの場合は化学物質によるコミュニケーションで集団を統制します。例えばよく見かけるアリの行列は、前のアリが地面に「道しるべフェロモン」を残してゆき、後ろのアリがそれをたどって歩いてゆく、という単純な「プログラム」によってできあがっています。

 例えば東南アジアに住むハキリアリは、下のような化合物を道しるべフェロモンとして使っています。この物質の感受性の高さはあらゆる生体物質の中でもトップクラスにランクされるもので、この化合物が0.33mgあれば一匹のアリに地球を一周させられる計算になるそうです。暗い地中で過ごすアリは視覚が退化した代わり、それを補って余りある嗅覚が発達したわけです。

ハキリアリの道しるべフェロモン、4-メチル-2-ピロールカルボン酸メチル

 最近の研究で、アリは単に道しるべフェロモンを地面につけているだけではなく、あらかじめある種の炭化水素を塗り付けておき、その上にフェロモンを出していることもわかりました。炭化水素は、フェロモンが土や木の肌に吸収されないための「ワックス」の役割を果たしています。これは京都工芸繊維大学の山岡亮平教授が、黒澤明監督の映画「8月の狂詩曲」の撮影(アリの行列のシーン)に協力する中で発見した事実だそうです。この炭化水素の組成はアリの巣ごとに異なり、アリが自分の所属する巣を見分ける役にも立っています。

 

 ついでにいえば、上に出てきたハキリアリは「農業」をするアリとして有名な種類です。彼らはたくさんの木の葉を噛み切って巣に持ち込み、細かく噛み砕いたものにキノコの胞子を植えつけ、生えてきた菌糸を収穫して食べます。これだけでも驚くべきことですが、彼らはさらに他の菌が繁殖しないための殺菌剤(フェニル酢酸)や、菌糸の成長促進剤(3-インドール酢酸)などを体から分泌し、効率的に食物のキノコを栽培していることが明らかになっています。いわば農薬や肥料を自前で作って収穫を上げているわけで、その本能の精妙さは自然界でも屈指のものといえそうです。

殺菌剤のフェニル酢酸(左)と、成長促進剤の3-インドール酢酸(右)


 進化の系統樹の上でアリに最も近い親戚に当たるのはハチの仲間で、彼らもまた女王を中心とした高度な社会を作り上げます。一つの巣に女王は普通1匹で、数万の働きバチに身の回りの世話をさせながら7年ほど生き(働きバチは一月ほど)、1分に2個のペースで卵を生み続けます。女王と働きバチは同じ卵から生まれるのに、これほど運命が分かれるのはなぜなのでしょうか?

 働きバチは幼虫の期間花粉や蜜だけを食べているのに対し、女王は生まれた時からローヤルゼリーと呼ばれる栄養価の高いミルクだけを食べて成長する、これが原因の一つです。しかし秘密はもう一つ、成虫の女王が出す「女王物質」にもあります。女王物質は女王バチの大顎腺から分泌され、働きバチは盛んにこれをなめます。しかし女王物質には卵巣の発育を抑える作用があり、これをなめたハチの生殖能力を失わせてしまうのです。いわば階級制度を維持するためのフェロモンであるわけです。

ミツバチの女王物質、9-オキソデセン酸。

 女王バチが突然いなくなった場合、働きバチは急きょ若い幼虫を探し出し、ローヤルゼリーを与えて後継者を作り出します。それもいない場合には、女王物質によって抑制されていた働きバチの生殖機構が復活し、卵を生めるように変化して急場をしのぐことになります。ややこしいシステムにはちゃんとこうした意味があるのです。


 ある種の昆虫は脱皮を繰り返して幼虫からサナギへ、さらに成虫へと変態しますが、このあたりも化学物質(幼若ホルモン)が関与しています。例えばカイコの変態はエクダイソン(下左)と、JH-I(下右)というホルモンによって制御されています。エクダイソンは脱皮・変態を促し、JH-Iは幼虫の姿でいることを保つ働きがあります。カイコは脱皮を繰り返しつつ大きくなり、5回目の脱皮でJH-Iが生産されなくなるとサナギへと変化するわけです。

ecdysonとJH-I(juvenile hormon I)

 幼若ホルモンを作っているのはアラタ体と呼ばれる器官で、これを切除してしまうと、まだサナギにならないはずの3齢や4齢のカイコが小さなサナギになってしまいます。またサナギになるはずの5齢幼虫に幼若ホルモンを人工的に与えると、幼虫のまま余分に脱皮して大きくなり、そのサナギは鶏卵大のマユを作るようになるそうです。また害虫の幼虫に幼若ホルモンを与え、成虫への変態を阻止するような研究も進められています。当然これは人体には影響ありませんので、昆虫だけを選択的に殺す「農薬」になりえます。

 ところで最近カブトムシやクワガタが人気を呼び、大型のものは異常なほどの高値で取り引きされているという話を聞きます。カイコを大きくした手が同じように使えるなら、人工的に巨大なカブトムシが作り出せるかもしれず、ひともうけを企む輩が出てきそうです。しかし、こうして「作った」人工の巨大昆虫がうまく生育するかどうかは誰にもわからず、また相当にグロテスクな話でもあります。幼若ホルモンはあらゆる無脊椎動物で共通ですから、下手に乱用すると生物界全体に影響が及びかねません。よほど害の大きい害虫対策ならともかく、金もうけや興味本位で自然の摂理を乱すようなことはやめておくべきと思います。

 昆虫の生態は多種多様であり、化学物質の使いこなしようも様々です。こちらは次回紹介していきましょう。

 

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