☆異能の脇役・フッ素の素顔(3)

 フッ素の話、第3回は生体とフッ素の関わりについて。

 歯の表面にフッ素(正確にはフッ化ナトリウム水溶液)を塗る虫歯の予防法は、一般にもよく知られています。これは歯の表面を作る成分の水酸基の一部がフッ素に置き換わることにより、虫歯菌の出す酸に強い「ヒドロキシフルオロアパタイト」に変わるためです。

Ca(P04)6(OH)2 + F- → Ca(PO4)6(OH)F + OH-

 現在、世界の38ヶ国でフッ素が水道水に添加されており、虫歯予防に大きな成果を挙げています(このためアメリカでは大学の歯学部が閉鎖に追い込まれているほど)。ただし、フッ素の濃度が高すぎると歯がまだらになってしまう他、フッ素が環境を汚染するという反対運動などもあって、今のところ日本では実現していません。反対論者の意見の正否の判断はみなさんにお任せしますが、少なくともフッ素添加を行っている国々での調査では、特にこれといって問題は起こっていないようです。

 反対論といえば、「テフロンコートのフライパンを空焚きすると、猛毒のペルフルオロイソブテンが発生する」として、これらの使用を弾圧する動きもありました。これも綿密な調査が行われましたが、どう空焚きしたところで、人体に影響があるほどの量は発生しないという結論に落ち着いています。

Perfluoroisobutene。ホスゲンの10倍の毒性を持つ。

 それにしても、人工血液に使えるほど安全なフルオロカーボンもあれば、このような猛毒の化合物もあるわけで、なかなかフッ素化合物の性質は予断を許さないものがあります。


 今まで挙げてきた有機フッ素化合物は全て人工の化合物ですが、天然の化合物にもごくわずかながらC-F結合を持ったものも存在しています。南アフリカに自生する植物が作る、フルオロ酢酸類(下左)がその一例です。

fluoroacetic acid(左)とacetic acid(右)

 ご覧の通り、酢酸(上右)の水素が一つフッ素に置き換わっただけのごく簡単な化合物ですが、実はこれも法律で製造・輸入が規制されているほどの猛毒なのです。酢酸は食酢の主成分で、我々が日常的に口にしている化合物ですが、これとそっくりのフルオロ酢酸がなぜ毒なのか?実は、そっくりだからこそ毒なのです。

 人間は食べたものを体内で消化・分解して栄養源としますが、酢酸はこの分解の過程でのキーポイントになる化合物です。酢酸はオキサロ酢酸という化合物と結合してクエン酸になり、次にアコニターゼという酵素の働きでアコニット酸に……といったように次々に変換されてゆき、この過程で化学エネルギーが生じます。このエネルギーこそが生体を動かす力になっているわけです。

左から酢酸、クエン酸、アコニット酸

 フッ素は水素に次いで小さい原子であるため、フルオロ酢酸は酢酸と間違えられて同じ過程に取り込まれ、まずフルオロクエン酸になります。しかしこの後は、水素であるはずの場所にフッ素があるためこれ以上反応が進行せず、アコニット酸にはなれません。しかもフルオロクエン酸はアコニターゼの中にはまり込んだままにっちもさっちも行かなくなり、次に本物のクエン酸が来ても処理ができなくなります。アコニターゼをつぶされた生体はエネルギーを生産できなくなり、数時間後に苦しい死を迎えることとなります。いわばフルオロ酢酸は、敵組織の一員そっくりに化けて潜り込み、内側から組織を崩壊させる「スパイ」のような化合物なのです。

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 ところがこの原理を逆手に取って、毒ではなく医薬も作られています。下に挙げる5-フルオロウラシル(5-FU)がそれで、胃癌などに対する抗癌剤として最もよく使われている薬剤の一つです。

5-fluorouracil

 5-FUは、DNAやRNAの構成原料となるウラシルという分子の水素が、1ケ所フッ素に置き換わったものです。これはフルオロ酢酸と全く同じ原理でDNAの合成過程に入り込み、その合成を止めてしまいます。細胞が分裂する時はDNAに書かれた情報をもとに複製を行いますから、DNAの合成なしでは癌細胞は増殖できません。いってみれば癌細胞に対する「毒」を、人体に対する「薬」として使っているわけで、「毒と薬とは紙一重」と言われるのはこのあたりのことです。

 フッ素を含む薬は5-FU以外にも数多く開発されています。電子を強く引き込む力と、サイズの小ささが分子全体の性質を変えるのに役立つからです。近年フッ素を有機分子に組み込む反応の開発が大きく進展しているのは、ひとつにはこうしたニーズがあるせいでもあります。


 フッ素を含む「毒」といえば、日本人には忘れられない化合物があります。1994年10月に松本で、1995年3月に東京で用いられ、史上初の化学兵器による無差別テロとして世界を震撼させた「サリン」がそれです。

サリンの分子構造。オレンジ色はリン原子。

 サリンはすでに1902年に合成されていましたが、猛毒であることが発見されたのは1937年、ドイツの化学者によってでした。ごく微量を吸い込むだけで死に至るサリンをナチスが見逃すはずはなく、終戦までにドイツ軍は全人類を滅ぼせる量のサリンを生産していたといわれます。結局戦線に投入されることなく終わったのは同じ手で反撃されるのを恐れてのことでしたが、もしこれを使っていれば当時の連合軍の技術ではおそらく成分は解析できず、歴史は変わっていたものと思われます。

 サリンの毒性は、アセチルコリンエステラーゼ(AChE)という酵素を阻害することによります。アセチルコリンは神経の情報伝達に関与する分子で、この分子がやってくるとその合図に応じて筋肉細胞は収縮します。随意・不随意を問わず、体の全ての部分を動かすのに非常に重要な分子です。

アセチルコリン

 とはいえこのアセチルコリンが、いつまでも細胞内にとどまっていたのでは神経は興奮しっ放しになってしまいますので、用済みのアセチルコリンはさっさと消えてもらわなければいけません。この分解を受け持つのがAChEというわけです。

 アセチルコリンにやや構造が似ているサリンはAChEにくっつき、その作用を止めてしまいます。AChEが阻害されてしまうと伝達役のアセチルコリンは野放しになり、神経は暴走を始めます。具体的には筋肉が痙攣を起こし、悪くすれば心臓や肺が機能を止めて死に至ることになります。しかもサリンは、そのフッ素原子が外れて、酵素の水酸基に置き換わる形でしっかりと酵素にくっついてしまいますので、ほんの少量が命取りになってしまいます。

 オウム真理教の無差別テロは合わせて19人の人命を奪い、5000人以上の重軽傷者を出しました。ちょっとした知識と、それなりの設備さえあれば安価に作れてしまう神経ガスは「貧者の原爆」とも呼ばれ、化学の産み出した鬼子の一つといえます。ヒトラーさえ使用をためらったものを、無関係の人々の頭上に散布した彼らの残忍さ、卑劣さは今さら論ずるにも及びませんが、この日本史上最悪の犯罪が一般に対する「化学」のイメージを大きく傷つけたのは間違いなく、化学の道をなりわいとする者の一人として今でも残念でなりません。


 フッ素が発見されてから100年あまり、その化学はかくも多彩な発展を遂げました。その性質を生かして毒薬と医薬の両方ができること、見た目には似たような構造が、猛毒であったり全く無害であったりすること−ー。その両極端な性格を見ていると、化学物質に関する「○○が含まれているから危険」「××は△△に似ているから安全」といった単純な決めつけが、いかに無意味であるかを痛感します。

 同じ元素の同じ性質を生かして、核兵器と最強のプラスチックの両方が作れます。科学技術や物質自体に善悪はありません。その善悪を決めるのは、それを使う人間の側ということになるのでしょう。

 

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