☆医薬の王様・アスピリンの物語(1)

 人類と医薬のつきあいは有史以前から始まっています。これまでに用いられた医薬の種類は、それこそ呪術師のまじない程度のものから遺伝子工学を駆使して作られた最新の医薬まで、全てを含めれば数十万、数百万という単位にのぼることでしょう。

ではその中で人類に歴史上最も多く使われた、「薬の王様」というべき薬は一体何か。その座に就くのはまず間違いなく、今回の主役「アスピリン」をおいて他にありません。アスピリンは19世紀末に発売されて以来、最もポピュラーな抗炎症剤・鎮痛剤として現在に至るまで使われ続けており、その圧倒的な生産量は他の薬剤の追随を全く許しません。今回はそんなアスピリンの過去・現在・未来についてお話ししていきましょう。


 アスピリンのそもそもの歴史をたどれば、東洋・西洋で共に古くから鎮痛剤として用いられていた「ヤナギの枝」に行き着きます。いわゆる爪楊枝は、虫歯の痛みを止めるためにヤナギの枝を噛んだのが始まりという説もあるくらいです。19世紀中頃に至ってこのヤナギの木から有効成分が純粋に取り出され、ヤナギの学名「Salix Alba」にちなんで「サリチル酸(salicylic acid)」と名付けられます。1870年代からこのサリチル酸はリウマチなどに対する抗炎症剤として用いられ始めましたが、この化合物には重い胃腸障害という副作用もあり、投与された患者はみな強い胃痛に悩まされることとなりました。

サリチル酸

 ドイツの化学会社バイエルはサリチル酸のこの作用に目をつけ、当時29歳の若き化学者フェリックス・ホフマンにその副作用を軽減させる研究を命じます。ホフマンの父もサリチル酸を服用するリウマチ患者で、副作用の激しい胃痛に悩まされている一人でもあったことから、その研究は単に社命というにとどまらない切実な動機がありました。

 ホフマンはサリチル酸の強い酸性が胃を痛める原因ではないかと考え、水酸基をアセチル化して酸性を弱めた「アセチルサリチル酸」を試すことを思いつきます。結果は大成功で、この化合物は関節の炎症を抑えて痛みを除いた上に、副作用はサリチル酸に比べてはるかに弱くなっていました。

aspirin(アセチルサリチル酸)

この薬はアセチルの「ア」+「スピル酸」(サリチル酸の別名)から「アスピリン」と名付けられて1897年に発売され、あっという間に医学界の話題をさらいます。ちなみにこの「アスピリン」という言葉はバイエル社の商標でしたが、第一次世界大戦でドイツが敗北した際に賠償の一環として連合国に取り上げられ、各社で自由に使ってよい薬品名ということになりました。逆に言えば賠償として狙われるほどに、鎮痛剤アスピリンの威力は絶大であったともいえます。

 最大の市場であるアメリカでの売れ行きは特に凄まじいもので、アメリカ人が大恐慌や禁酒法などによるストレスに悩まされた1920〜30年代を指して「アスピリン・エイジ」という言葉さえ生まれたほどです。現在でもアメリカ人は驚くほどアスピリンをよく飲み、その消費量は年間1万6千トン、200億錠にも達します(日本のそれは300トン)。数多の医薬が歴史の波に淘汰されていった中、一世紀の風雪に耐えてなおこれだけ売れ続ける薬というのは他に全く例がありません。


 ところが信じ難いことに、これほどポピュラーな薬であるアスピリンがなぜ痛みを抑え、炎症を鎮めるのかは70年以上も謎のままでした。その解明の第一歩になったのはイギリスのベイン、スウェーデンのベルグストレームらによる「プロスタグランジン」(略称PG)という物質の発見でした。当初前立腺(prostate)から発見されたためこう名付けられましたが、実際には全身に分布して重要な役割を担っている化合物です。

prostagrandin E2

 PGには少しずつ構造の違う類縁体がたくさんあり、現在までに30種以上が発見されています。これらはほとんど見分けがつかないくらいにお互いによく似ているのに、それぞれ体温の調節・血管の拡張・胃液の分泌・痛みの伝達など多彩な生理作用を示します。

 PGの原料になるのはアラキドン酸という炭素数20個のカルボン酸で、これがシクロオキシゲナーゼ(cyclooxygenase、略称COX)という酵素の作用によってプロスタグランジンH2(PGH2)になります。こうしてできたPGH2がさらに変換を受け、他のプロスタグランジンが生産されていきます。その一つには、炎症を引き起こす働きのあるプロスタグランジンE2もあります。

 

アラキドン酸(左)とプロスタグランジンH2(右)

 アスピリンの作用は、このCOXに取りついてその働きを止め、プロスタグランジンを作らせなくすることにあることがわかりました。PG合成の大元をせき止めれば、下流にあるPGE2もできなくなり、結果として炎症や痛みも鎮まるという理屈です。

 下にCOXの絵を示しておきます。右上に浮かんでいる緑色がアスピリン分子、色とりどりの大きな塊がCOX分子です。

COXとアスピリン。COXはアミノ酸ごとに色分けしてある。

 アスピリンの下に「裂け目」がありますが、COXはここにアラキドン酸を捕らえて酸素を取りつけ、PGを合成します。アスピリン分子は単身この巨大なCOX分子の腹中にもぐり込み、自身のアセチル基をCOXに移し替えてしまうのです。この果敢な攻撃によってアスピリンはCOXの働きを食い止め、ひいてはさらに巨大な我々の体の調子さえ変えてしまうというわけです。

 こうしてアスピリンの作用の謎は一応解けたわけですが、話にはまだまだ続きがあります。このあたりはまた次回に。

 

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