☆香りの化合物(2)

 前項に引き続き、香りのある化合物について。

 

 ☆芳香族化合物

 ベンゼン環(いわゆる亀の甲)を含む化合物を一般に「芳香族化合物(aromatic compound)」といいます。その名の通りこれらには芳香を示すものが多いのです。シナモンの香りであるシンナムアルデヒド(下左、橙)やコーヒーの香りであるカフェー酸(下中、茶色)、桜餅の香りであるクマリン(下右、ピンク)などがその代表選手です。

 カフェー酸はコーヒー豆の中では糖がくっついたクロロゲン酸という形で存在しています。この豆をローストすることにより糖が外れてカフェー酸が遊離し、コーヒーの深い芳香が引き出されるのです。

 クマリンはかつてはトンカ豆から抽出されていましたが、1876年にイギリスのPerkinが初めて人工合成に成功して安く市場に出回るようになりました。6年後、これを元にフランスのHoubigantが「Fougere Royale」を調合・発売し、ここに近代的な香水の歴史の幕は開かれました。いわばクマリンは人工香料の元祖であるわけです。

 芳香族化合物は合成も容易であるため、天然にはない様々な化合物が作り出され、香料として発売されています。アラミスの「New west for her」やカルヴァン・クラインの「Escape for her」は下に示すキャロン1951(水色)とトロピオナール(青)の組み合わせがベースとなっています。これらは海をイメージさせる爽やかな香りがします。

 バニラの甘い香りもバニリン(下左、黄色)という芳香族化合物によるものです。面白いことに、このアルデヒド部分を炭素鎖に置き換えたものはカーネーションの香り(下中、灰色)、水酸基をエステル化したものはチョコミントの香り(下右、茶色)になります。

 これらはまだわかるのですが、ショウガや唐辛子の辛み成分であるジンジェロン(黄緑)やカプサイシン(オレンジ)もまたバニリンと同じような骨格を持っています。あのバニラの甘い芳香と、唐辛子の刺激的な味がどう結びつくのか不思議としかいいようがありません(まあこれらは香りというより味覚を表す分子ですが)。

 カプサイシンは代謝を高める作用があるためダイエット食品として用いられている他、痛みを伝える分子として研究者の注目を集めています。

 ラズベリーの香り成分もこれらと同じ仲間の化合物です(下図)。最近、カネボウ食品がこの「ラズベリーケトン」に脂肪の燃焼を促進させる作用があると発表し、話題を呼びました。同社では今後ダイエット食品として売り出して行く方針のようですが、その効能のほどにはいろいろと議論があるようです。

 ☆その他

 いわゆる磯の香りの正体は、ノリなどが作り出すジメチルスルフィド(下左)という硫黄(黄色)化合物です。また、シイタケの香り成分の一つにレンチオニン(下右)という化合物がありますが、これは7員環に硫黄が5つ含まれているという変わった化合物です。硫黄を含む化合物はたいてい悪臭がしますが、微量であればこのように比較的よい香りと思えるものもないではありません。

   

 このように匂いの感じ方は量にも左右されます。例えば下に示すラウリルアルデヒドなどは、純粋なものは逃げ出したくなるくらいの悪臭ですが(何か昆虫めいた実にいやな臭いがします)、ほんの微量これを配合して大成功した香水があります。マリリン・モンローが愛用したことで知られる、かの有名なシャネルの5番がそれです。

 天然の香料といえばほとんどが植物由来ですが、数少ない例外としてジャコウジカから得られる麝香(ムスク)があります。麝香の主成分はムスコン(下左、紫)という15員環化合物ですが、最近ではジャコウジカが保護動物に指定されたため天然からの供給ができなくなっています。そこで、下中(白)の人工化合物が代用として用いられます。ご覧の通りムスコンとは似ても似つかない構造ですが、不思議なことに非常によく似た香りがするそうです。

 上右のモキサロン(水色)はやはり人工化合物ですが、ムスクの他、ややフルーティな香りを併せ持ちます。イブサンローランの「Paris baby doll」やカルヴァン・クラインの「CK be」などに配合され、これから流行すると予測されています。


 香りの分子についていろいろと見てきました。しかし似たような分子が全く違う匂いを感じさせたり、悪臭を放つ分子が少量なら芳香に感じられたりと、香りの世界は全くもって不思議だらけです。匂いを感じるための受容体(レセプター)は約1000種類あると言われ、これらがどのように働いてどのように匂いの刺激を脳に伝えるのか、まだまだ解明されていない部分が多いというのが実情です。また嗅覚は男女差、個人差もかなり大きいようで、これも研究の難しさに拍車をかけているようです。

 一方で、嗅覚は人間の精神や肉体にもかなり大きな影響を及ぼします。本文中でも触れた通り、いくつかの香りは鎮静作用や血圧降下作用などを併せ持ちます。古くから日本にも「香道」と呼ばれる香りの文化がありましたし、森林浴やアロマテラピーなどといった健康法も単なるブームの域を越えて生活に浸透しつつあります。嗅覚はある種もっとも原始的な感覚であるだけに、これを追及するということは人間の最も深いところに触れることにつながるのかもしれません。

 

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