☆抗生物質の危機(1) 〜「魔法の弾丸」の誕生〜

 ペニシリンをはじめとする抗生物質は、今やそこらの病院へ行けば、数百円で処方してくれるごくありふれた薬となりました。しかし現在、その抗生物質に思いもかけなかった危機が迫っています。今回は、抗生物質の歴史と現在にスポットを当ててみましょう。

 1928年、イギリスのセントメリー病院に勤務していた細菌学者フレミングは、病原菌の一種であるブドウ球菌の培養実験を行っていました。ある日彼は、培養シャーレの中に1ヶ所だけ菌が成育していない場所があることに気づきました。調べてみるとそこには、実験中偶然まぎれこんだアオカビが生えていたのです。これはアオカビが、ブドウ球菌を殺す何らかの成分を作っているためではないか、とフレミングは直感しました。これこそが後に「フレミングの神話」とまで呼ばれた奇跡の始まりでした。

 1940年、化学者フローリーは努力の末、この成分を純粋に取りだすことに成功します。ペニシリンと名付けられたこの成分は、ブドウ球菌などの細菌をきれいに殺してしまうのに、人間など高等生物にはほとんど害がないという素晴らしいものでした(これまでにもサルファ剤など化学療法は行われていたのですが、毒性・有効性などに不満があったのです)。ペニシリンはさっそく大量生産され、第二次世界大戦の戦場で多くの兵士の命を救うことになりました。終戦後にもペニシリンは大きな威力を発揮し、1950-60年代にかけて人類の平均寿命は急上昇しています。ここにペニシリンをはじめとする抗生物質の力が大きく与っていたことは、疑いのないところでしょう。

penicillin

 なぜペニシリンは動物には害がなく、細菌だけを殺すのか?手品の種は、分子中央部の四角形の部分(β-ラクタムといいます)にあります。細菌の細胞は、堅い網目状の分子でできた「細胞壁」というもので覆われており、これのおかげで形を保っています。ペニシリンのβ-ラクタムは反応性が高いため、細菌の細胞壁を作る酵素と反応してその働きを止めてしまうのです。こうなると細菌は細胞壁を作れなくなり、破裂して死んでしまいます。動物の細胞はこの細胞壁を持たないため、ペニシリンは人体には無害だというわけです。


 ペニシリンは、アオカビが周囲の細菌から自分の身を守るために作っていると考えられます。ということは、他の菌類にもこうした物質を作っているものがいるのではないか?予想は当たり、他の菌からも様々な抗生物質が発見されました。
左上からクロラムフェニコール、ストレプトマイシン、テトラサイクリン、エリスロマイシン。

 これらは効能も作用機序も、また構造も様々でしたが、次々に発見されるこれらの物質によって感染症の治療は革命的に変わっていきました。もちろん、天然の物質に頼るだけでなく、有機合成化学の力も大きく進歩に寄与しました。セファロスポリンという化合物を合成的に変換することで、作用が改善(毒性を下げる、広い範囲の細菌に有効になる)された多くの薬が生み出されましたし、キノロン系など完全に人間が化学合成した化合物からも有用な物質が見つかっています(炭疽菌に有効であることで脚光を浴びた薬剤、「シプロ」はこの仲間です)。

セファロスポリンを改良して得られたセファメジン(左)、抗炭疽剤シプロ(右)

 こうして長い間人類を苦しめてきた結核、ペスト、チフス、赤痢、コレラなどの伝染病の脅威は、永遠に我々から去っていった――かに見えました。ところが、細菌という敵はそれほど生やさしい相手ではなかったのです。ターニングポイントとなったのは、抗菌剤が効かない細菌−耐性菌の出現でした。抗生物質という「魔法の弾丸」を手にした人類に、攻め込まれる一方だった細菌の「逆襲」がついに開始されたのです。これについては次の項で詳しく述べてゆきましょう。

 

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