医薬品の特許制度(Ohm Bulletin 2009年夏号掲載)


 ・特許は医薬の生命線
 現代のあらゆる産業は、特許制度によって守られている。なかでも医薬品産業は、おそらく特許に関して最もシビアな産業である。自動車や電機などは細かな技術の集合体であるから、それらを支える一つ一つの特許が成立・失効したところで、ただちに製品の売り上げが大きく変化するようなことはない。
 しかし医薬品では、実質上たった一つの特許が一つの製品を守っている。そして一つの医薬品がもたらす売り上げは年間数百億から数千億円というオーダーになるから、特許をめぐる攻防戦が製薬企業の運命を直接左右してしまう。医薬品産業こそは「特許の産業」であるといっていい。

・化合物の「囲い込み」
 医薬品に関する特許にはいくつかの種類があるが、最も重要なのは「構造特許」である。メーカーは「この種の化合物がある疾患の治療薬として有効」というデータを得たら、化合物の範囲を指定して特許を申請する。ある骨格上のこの位置に、炭素数6までの○○、××という置換基がついたもの……というように事細かく化合物の範囲を指定し、「囲い込み」をおこなうのである。またその特許には、実際に作った化合物の合成法、それを実証する各種データなどを「実施例」として添えなければならない。
 この特許が成立すれば、他のメーカーはその後20年間、営利を目的としてその範囲の化合物を製造・販売することが禁じられる。ただし医薬品の場合、一般に臨床試験や審査などに15年前後もの時間を要するため、申請すれば最大5年まで特許期間を延長することが認められている。もし今(2009年)特許を出願して認可されれば、最長2034年までその特許が有効であるということになる。

・特許を巡る駆け引き
 特許は、出願から1年半後に公開され、他のメーカーもそのデータを見て研究を行うことができるようになる。他社はそこで指定されていない範囲の化合物を合成し、さらに優れた化合物を見つけて特許申請すれば、それはその会社の保有する知的財産になる。このように他社の物まねから生まれた薬を「改良型新医薬品」と呼ぶ。俗に「ゾロ新」「me too drug」などともいわれるが、ここから本家より優れた医薬が生まれることも少なくない。つまり特許申請すべき範囲を見誤れば、ライバル会社に貴重な情報をタダで公開するだけの結果にもなりかねない。

 特許出願のタイミングも重要だ。他社との競争が激しい時は一刻も早く申請をおこなう必要があるが、あまりにあわてれば申請すべき範囲に見落としが生じる可能性が高くなる。また特許の有効期間は出願の日から起算するから、遅く出願すればその分独占販売できる期間が延びる。年間400億円売れる薬であれば、一日特許期間が延びるごとに約1億円の売り上げをもたらすことになるから、その影響は大きい。

 ・ジェネリック医薬
 特許期間が満了すれば、他社も同じ構造の薬を売り出すことができるようになる。これがいわゆるジェネリック医薬品だ。オリジナルの薬(先発品)は研究段階、臨床試験などに数十億円から数百億円という莫大な資金を投じなければならないが、ジェネリックは溶解性など簡単な試験を行い、先発品と同等と認められればすぐに市販が可能になる。このためジェネリックは、先発品の3分の1から5分の1程度という低価格で販売される。ジェネリックの普及の進むアメリカでは,先発品は特許が切れた瞬間にシェアをジェネリックに奪われてしまうし、日本でも医療費抑制のかけ声に乗ってジェネリックへの切り替え圧力が強まっている。先発品メーカーにとって特許切れは最大の恐怖であり、これをカバーするには次々と新薬を出し続けるほかない。

・新薬が生まれない!
 ところが近年、新薬の承認数は目立って低下している。さらに,現在世界の製薬企業の売り上げを支えている大型医薬品は、2010年前後に一斉に特許が失効となる。これがいわゆる「2010年問題」で、医薬品業界は打開策に頭を悩ませている。
 なぜ新薬が出てこなくなったのか。ひとつには、今までのタイプの医薬品のターゲットになりうる疾患が、ほぼ出尽くしてしまったためだ。高血圧・胃潰瘍・感染症など、発症機序のよく理解された病気にはすでに完成度の高い薬がいくつもあり、残っているのはがんやアルツハイマー病といった難治性疾患ばかりになってしまったのだ。
 もうひとつ、安全性に関する基準が極めて厳しくなったことも重大な要因だ。サリドマイド*1、ソリブジン*2など薬害事件のたびに医薬品の審査基準は厳しさを増しており、一説にはアスピリンが今新薬として申請されたら、胃痛などの副作用のためまず認可されないともいわれる。
 これにとどめを刺したのが、メルク社の消炎鎮痛剤・バイオックスの副作用問題だ。この薬は胃痛など副作用の少ない医薬品として発売され、アメリカで年商3000億円という爆発的売り上げを記録した(日本では未発売)。しかし2003年、この薬を長期投与すると、心筋梗塞などの疾患の発生率が2倍ほどに上昇することが発覚したのだ。この件でメルク社は2万7000件の訴訟を起こされ、支払った和解金は総額50億ドル近くにも上った。もちろん、医薬品業界全体の受けたダメージも計り知れないものだった。

 ・効能とリスクのバランス
 バイオックス事件は、FDA(アメリカ食品衛生局)による新薬の承認にも大きな影響を与えたといわれる。この例のような頻度の低い副作用の有無を調べるため、今までよりも多数の患者での臨床試験を求められるようになったのだ。当然臨床試験の期間は長引くようになり、開発費用はかさみ、承認を受ける新薬の数も極端に落ち込んだ。近年では、承認を受ける新規低分子化合物の数は年間15〜20程度に過ぎない。
 2009年2月には武田薬品が、敗血症治療薬TAK-242の臨床試験中止を発表した。同社の発表によれば、TAK-242は有効性・安全性などに問題があったわけではなく、戦略上の問題であるとしている。臨床試験が長引いたことにより、今後承認に漕ぎつけたとしても、特許切れまでに投下した資金を回収しきれないとの判断であったようだ。効能が低かった、副作用が出たというならともかく、大きな問題のなかった候補化合物の開発を中断するのは、会社としても断腸の思いであったに違いない。
 敗血症は血液中で増殖した細菌が毒素を放出して起こるショック症状で、重症化すると今のところ有効な治療の手だてがない。こうした分野の新しい治療手段となり得た化合物が、医学上の理由以外で命脈を絶たれるのは大いに問題ではないだろうか。これは決して特殊なケースではなく、現状の審査体制が続く限りこうしたケースは今後も発生しうると考えられる。
医療費抑制も、安全性確保ももちろん重要な問題ではある。しかし、あまりにそちらに傾きすぎ、本来人の命を救えたはずの新薬が世に出られないようでは本末転倒だ。一刻も早く新薬の審査が可能になるよう、何らかの形でシステムを改善していかなければならない時ではないか。医薬品産業にとって、25年という時間は決して長くはない。

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