乳酸 〜発酵食品は人類の友〜

 この世に一番たくさんある有機化合物は、ブドウ糖であるといわれる。果物や牛乳などにはかなりの糖分が含まれるし、デンプンやセルロースなどはブドウ糖が長くつながったものだ。またブドウ糖は各種の反応を受けやすく、様々な化合物の原料、エネルギー源にもなりうる。こんな便利な化合物を自然界が放っておくはずもなく、糖類を化学反応させたエネルギーで生きている細菌は星の数ほどある。


グルコース

 中でも一大勢力を成すのが乳酸菌だ。ブドウ糖(C6H12O6)を分解して2分子の乳酸(C3H6O3)に変える菌はたくさんおり、これらをまとめて乳酸菌と呼んでいる。
 乳酸菌にとってこの反応は単なるエネルギー源というだけではない。できた乳酸で周囲を酸性に変えることによって他の菌を撃退し、自分たちだけが心地よく繁殖できる環境を作り出すという目的がある。食料の確保と武器の生産を同時に行う乳酸菌のシステムは、生物として大成功を収めた。
 そんなわけで乳酸菌はどこにでもいるありふれた菌である。人間の皮膚にもついているし、空気中にも漂っている。果物がぶつけたところから傷むのは、崩れた組織に乳酸菌が入り込み、糖分を乳酸に変えるからだ。


乳酸(lactic acid)

 その乳酸菌の力に、我々人類は古くから大いに世話になっている。中でも代表格はヨーグルトだろう。今や世界中で愛されているヨーグルトだが、普及したのはほんのここ100年ほどのことだ。きっかけを作ったのはノーベル賞受賞の細菌学者イリヤ・メチニコフで、ブルガリア近辺に長寿者が多いのはヨーグルトを食べているおかげではないかと発表し、世界の注目を集めた。乳酸菌を体内に取り入れると、先に述べた効果により大腸菌など悪玉細菌が排除され、腸内の環境が整う。さらに乳酸菌によってタンパク質が消化吸収されやすい形に変わること、各種ビタミンが増えていることなども指摘されている。また体質によって腹を下す原因になる乳糖も分解されるため、牛乳が苦手な人もヨーグルトなら大丈夫といわれる。長寿がヨーグルトのおかげだけであるかはともかく、健康食品として非常に優れているのは事実であるようだ.。


イリヤ・メチニコフ(画像はWikipediaより)

 他にも糠漬け、キムチ、ザワークラウト、ピクルス、さらにかの有名なシュールストレミングなど、各国の多くの食品が乳酸発酵によって作り出されている。前述のように、乳酸菌は乳酸を大量に作ることによって他の菌の増殖を抑えるので、乳酸発酵した食べ物は事実上腐敗する心配がない。乳酸は、食品に爽やかな酸味を与えるだけでなく、保存料としても人類を大いに助けてきたわけだ。
 また乳酸菌は、日本酒の製造にも重要な役割を果たす。醸造の際にはまず乳酸菌が繁殖して他の菌を駆逐し、環境を整えたところで酵母が働いてデンプンをエタノールに変える。また味噌や醤油の製造においても、乳酸菌は同じように「露払い」として活躍する。乳酸菌なしには、我々日本人の食生活は成り立たないといっていい。

 一方で人類にとって害をなす乳酸菌も存在する。人間の口内に常駐しているミュータンス菌などがそれで、これらは人間が食べた糖類の残りカスを分解し、乳酸に変えている。この乳酸がヒトの歯のエナメル質を溶かし、虫歯を作ってしまうのだ。もっとも、腸内で働くビフィズス菌が有り難がられるのに、口の中で同じことをしているミュータンス菌を厄介者呼ばわりするのは、人間の側の身勝手というものかもしれない。


ストレプトコッカス・ミュータンス菌(画像はWikipediaより)

 乳酸を作るのは細菌ばかりではなく、高等動物の体内でも多量に生産されている。特に運動した後の筋肉内にたくさんできるため、「疲労物質」などと呼ばれて嫌われてきた。が、最近の研究によると、これはどうやら全く逆らしい。通常、筋肉では糖を燃やしてエネルギー源としているが、急激な運動で糖が消費されてしまった時にこれを補う形で乳酸が用いられるというのが新しい学説だ。つまり乳酸は筋肉を痛めるのではなく、むしろその保護に働いているというのが正解らしい。たまたま疲労した筋肉に蓄積していたため、乳酸は長いこと濡れ衣を着せられていたわけだ。

 また最近になり、乳酸は思わぬ形で新しい角度から脚光を浴び始めている。乳酸をたくさんつなげることで、ポリ乳酸という有望なプラスチックができることがわかったのだ。


ポリ乳酸

植物は空気中のCO2を吸収して糖を作り、これを細菌が乳酸に変え、さらに人間が手を加えてプラスチックに変える。つまりポリ乳酸は、究極的には地球温暖化の原因となるCO2から作り出すことができるわけだ。しかも使用後は土などに埋めておけば、細菌によって分解されて乳酸に戻り、自然界に返ることもわかっている。強度不足などが難点とされてきたが、これも様々な改良によって解決に向かっており、携帯電話や自動車部品などへの実用化が進んでいる。健康食品からプラスチックまで、人類の友たる乳酸の活躍の場は今後もさらに広がる一方のようだ。

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