☆ドーパミン 〜文明を創った物質〜

 宇宙に生命はいるのか?これは人類の好奇心をそそる永遠のテーマだ。今のところ、他の惑星に我々の遠い友人が住んでいることを示す直接の証拠は何もない。が、「『いる』と考える他はない」と主張する科学者は少なくない。

 この論拠の一つは、地球に生命が現れた時期だ。生命の誕生は約38億年前と考えられているが、これはようやく原始地球への隕石衝突が静まり、地表が固 まってきた時期だ。要するに生命は条件が整うやいなやあっという間に登場しているわけで、生命の誕生はそう特別なことではない、むしろ条件を満たす惑星上 でなら必然的に起こることと考える根拠がある。
 が、我々人類と同じように知性を備え、文明を築くような種族がいるかとなると、こちらは悲観的な意見が多い。例えば「眼」や「社会生活を営む昆虫」は、 生命史の中で独立に10回以上発生しているとされるが、知性や文明はこの38億年間でどうやらただ一度しか発生していない。生命史の中で「文明」の登場 は、光合成のシステムや多細胞生物の発生と同じか、それを上回るほど特別なイヴェントと考えてもさほどの無理はないだろう。

 文明の発生をたったひとつの化合物で語るのはもちろん無理だろうが、あえて代表をひとつだけ挙げるならこのドーパミンではないだろうか。図のように比較的単純な構造なが ら、脳内で伝達物質として極めて重要な役割を果たす。何よりこの化合物は「脳内麻薬」として知られ、人が爽快感・感動を覚えた時に脳内で放出されることが知られている。スポーツや音楽などに強く感動した時に、脳内 でこのドーパミンが放出されることが実証されている。人間のあらゆる行動は、この「快感物質」の放出を求めて起こると言っても決して過言ではない。


dopamine

 ドーパミン系が故障すると、様々な障害が起こることが知られている。マイケル・J・フォックスやモハメド・アリが罹患したことで知られるパーキンソン病 は、ドーパミンを放出する細胞が変性することによって起こる。この病気にかかると、何かを自発的に行おうという意欲が著しく低下する。また逆にドーパミンが出過ぎると幻覚や妄想などにつながるなど、ドーパミン系の不調による精神疾患は数多い。この化合物が人間の意欲・行動と深く関わっていることが、これらの事実からも知れる。

 このようなことから、ドーパミンは文化史とも深く関連している。例えばモーツァルトの名曲の数々は、ドーパミンの不足から生まれたのではないかとする説が ある。映画「アマデウス」で描かれたように、モーツァルトは生涯にわたって奇行が目立ち、今でいうADHD(多動性障害)だったのではないか、また晩年に は強迫妄想に囚われていたのではないかとも言われている。彼はこれらの症状を抑えるために自らドーパミンの放出をうながす曲を書き、それが後世の人々を感動させる名曲として遺っているのではないか――というものだ。

 ドーパミンが感動物質であることを思えば、これはありえそうな話ではある。19世紀末、統合失調症と診断された「バイエルンの狂王」ルートヴィヒ2世が、国家の年間予算の1割をつぎ込むほどにワーグナーの音楽に傾倒したというのも、あるいはこれと同断であるかもしれない。


ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)

 ドーパミンが分泌されることで快楽を感じるのは何も人間だけでなく、動物も同じであることが実証されている。しかし人間が彼らと異なるのは、単に食欲や性 衝動を満たすといったことではなく、新しいものを見つけた時、優れた芸術を見た時などにもドーパミンが放出される点だ。つまり、人間だけが「感動する能 力」を持っている。

 コロンブスが海の彼方に新しい大地を見出した時、ニュートンが落ちるリンゴを見て万有引力の法則を思いついた時、ジョン・レノンの脳裏に「イマジン」のメロディが浮かんだ時、ニール・アームストロングが月面に人類初の一歩を踏み出した時、彼らの脳内にはドーパミンが溢れるように分泌されていたはずだ。もちろん裏庭に美しく咲いた野の花を見つけた時にも、初めて作った料理が美味しく出来上がった時にだって「感動物質」は出ている。人が何かを始める時、何かを発見する時、何かを創り出す時、そこにはいつもドーパミンが介在している。

 スポーツ選手やミュージシャンが、直接社会の役に立つものを生み出しているわけではないのに高い報酬を得ているのは、彼らが社会を進歩させるエネルギーで ある、「感動」を供給する役回りを背負っているからだろう。人間が文化的行動によって脳内麻薬を放出するようになった時――、別の言い方をすれば、人間が 感動する能力を獲得した時に、全ての進歩が始まったのではないだろうか。あるいはドーパミンは、人間を他の動物から区別し、ホモ・サピエンス(知恵あるヒ ト)ならしめている化合物といってよいかもしれない。


 「感動することをやめた人は、生きていないのと同じことである」(アルベルト・アインシュタイン)


参考文献:モーツァルトが求め続けた「脳内物質」 (須藤伝悦著 講談社)
       遺伝子が明かす脳と心のからくり―東京大学超人気講義録(石浦章一著 羊土社)
       感動する脳(茂木健一郎著 PHP研究所)

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