世界を変えた化合物(1)・カフェイン 〜世界を制覇した3つの飲み物〜


カフェイン

 人類はこれまでにおそらく何十万という飲み物を発明してきた。この中で、本当に世界中で愛されているものといえば第一にコーヒー、次に緑茶・紅茶・ウーロン茶などの茶類、そして近代ではコーラが代表的なものだろう。この3つ、実は共通点がある。全てたっぷりとカフェインを含んでいる飲み物なのだ。他にココアやチョコレートもかなりのカフェインを含み、これらがやめられないという人も多い。これほどまでに世界中で偏愛されてきたカフェインの秘密とは、一体 何なのだろうか?

 ご存知の通り、カフェインを摂取すると疲労が回復し、頭が冴え、集中力が増すという効果がある。このため、茶やコーヒーを愛好する文化人・学者は古くから 枚挙にいとまがない。唐代の詩人盧仝(ろどう)は茶の効能について、「一杯飲むと喉が潤い、二杯目で一人思い悩むことがなくなり、三杯目で詩想が溢れ出 し、四杯目で不平不満が去り、五杯目では全身が清々しく爽やかになり、六杯目では神仙の境地に達し、七杯目では羽が生えて空を飛ぶ思いであった」とうたっている。

 西洋ではバッハが「コーヒー・カンタータ」を書いてその味わいと効能を讃えているし、詩人サミュエル・ジョンソンは一日40杯以上の紅茶を飲んだと告白し ている。文豪バルザックはコーヒーの助けを借りながら次々と名作を書き、効き目が薄れるとさらに濃いコーヒーを大量にがぶ飲みし、最後は乾燥したコーヒーの粉を直接食べていたという。放浪の天才数学者として有名なポール・エルデシュは、「数学者は、コーヒーを定理に変える機械だ」という名言を残している。 カフェインは、人類の誇るべき多くの文化遺産の産婆役を果たしてきたといっていい。

 カフェインがフリードリープ・ルンゲによって初めて純粋に単離されたのは1819年で、最も早く発見された有機化合物のひとつだ。彼にカフェインの研究を 勧めたのは、コーヒー通で知られた文豪ゲーテであったという。詩人と化学者の出会いがカフェイン抽出の契機になったというのは、実に象徴的な出来事ともい える。

 現代の研究によれば、カフェインの覚醒・興奮などの作用はアデノシン拮抗作用によると考えられている。アデノシンは体内物質の一つで、神経を鎮静させる作 用を持つ。この作用はアデノシンが受容体と呼ばれるタンパク質に結合することで起こるが、やや構造が似たカフェインはアデノシンのかわりに受容体にとりつき、これをブロックすることができる。つまりカフェインは鎮静作用を妨げることで、神経を興奮させているわけだ。


アデノシン

 カフェインを日常的に摂取していると、このアデノシン受容体の数が増えてくる他、脳内の各種伝達系にも変化が起こることがわかっている。先の盧仝の詩はずいぶん大げさだとも思えるが、刺激物に慣れていなかった時代の彼らには、我々よりも遥かにカフェインが「効いた」のかもしれない。実際、カフェインを長期 に大量に摂り続けると、禁断症状が起こることさえある。「カフェインこそ最も成功したドラッグだ」と言う人がいるのもむべなるかな、である。

 茶やコーヒーは、文化史にも直接間接に大きく影響を与えている。喫茶の習慣は日本でより洗練され、室町期に「茶道」として大きく花開いた。これに伴って生み出された茶器や数寄屋造りなどの建築、侘び寂びの精神などが、現代まで続く日本文化の支柱となっているのはご存知の通りだ。

 18世紀後半には、フランスでカフェが人気を集めた。ルソー、ヴォルテール、ディドロらがカフェに集まって議論を交わし、啓蒙運動の拠点となった。 1789年7月にはパリのカフェで弁護士カミーユ・デムーランが行った演説が民衆の心に火をつけた。彼らは2日後にバスティーユ牢獄を襲って陥落させ、これがフランス革命の口火となった。また19世紀には同じパリに世界から芸術家・文人が集まり、カフェ文化の花を咲かせている。カフェインという化合物がな ければ、フランスの歴史はどのように変わっていただろうか。


バスティーユ牢獄

 一方イギリスでは紅茶が人気を集め、複雑なティータイムの作法が発達した。ティーハウスでは政治や経済の議論が白熱し、証券会社・銀行・保険会社、さらには政党政治までもがここから出発したと言われる。近代は茶とコーヒーの香りと共にやってきたといっていいだろう。

 1773年には、アメリカ独立運動のきっかけとなった「ボストン茶会事件」が発生した。これはイギリス本国の徴税制度にアメリカ移民たちが反発したものだ が、イギリス紳士の愛好する茶を海に投げ捨てることによって、母国からの精神的独立を主張する意味合いも含んでいた。この後アメリカ人は紅茶を捨ててコーヒーを愛飲するようになり、やがてコーラを発明した。大英帝国の支配は逃れても、カフェインの魅力からは逃げられなかったともいえる。


ボストン茶会事件

 アメリカで生まれたコーラは今や、世界中を制圧した。コーヒーもまたネットカフェやスターバックスの凄まじい増殖ぶりが示すように、グローバリズムの新し い象徴となっている観すらある。新しい文化の傍らに常にあり続けたカフェインは、これから我々にどんな世界を見せてくれるのだろうか。

 下2つの画像はWikipediaより引用
 参考文献:世界を変えた6つの飲み物(トム・スタンデージ著)
        カフェイン大全(ベネット・アラン・ワインバーグ著)

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