☆ホルムアルデヒドの話

 Yahoo!ニュースの「サイエンス」トピックスでは科学に関するニュースが項目別に分類されており、リアルタイムでたくさんの情報が見られるので筆者も便利に利用しています。ここには「物理学」「天文学」「医療」などの他「ナノテクノロジー」「SARS」「遺伝子組み換え食品」といった項目までが揃っているのですが、残念ながら「化学」という項目は存在していません。「化学」と名のつくトピックは「化学物質と健康」があるだけで、化学がニュースになるのは人の健康を害したときだけなのか、と化学者の端くれとしてはやや情けない思いになってしまいます。

 その「化学物質と健康」トピックの中で、最近ダイオキシンなどと並んでよく登場するのが今回の主役「ホルムアルデヒド」です。シックハウス症候群の原因物質として悪名を高めているこの化合物、今回はその実体に迫ってみましょう。

 まずホルムアルデヒドとはどんな化合物か。名前だけ聞くとなんだか非常にややこしい物質を想像してしまいますが、実のところ下に示す通り極めて簡単な化合物です。炭素1つ、酸素1つ、水素2つとわずか4つの原子だけから成っており、この世のありとあらゆる有機化合物の中で最もシンプルなもののひとつといっていいでしょう。

formaldehyde

 ただしホルムアルデヒドはそれ自身でつながり合う性質があり、3つが輪になったものをトリオキサン、長く鎖状につながったものをパラホルムアルデヒドと呼びます。これらはガス状の単体ホルムアルデヒド(上図)に比べて保存・貯蔵がしやすいので、実験室ではこれらを使用直前に酸や熱で分解して使うことがほとんどです。

1,3,5-trioxane(上)とparaformaldehyde(下)

 ホルムアルデヒドは自分自身だけでなく、いろいろな分子をつないで橋かけをする性質があります。たとえば尿素とホルムアルデヒドを混ぜてやると、両者は水分子が外れる形で互いに結合します。この過程が繰り返されて、最終的には何百万、何億という原子から成る巨大なランダムネットワークが形成されます。これが尿素樹脂と呼ばれるプラスチックです。これは混ぜるだけで固まるため接着剤としても使用可能で、薄い板を貼り合わせて合板(ベニヤ板)を作るためなどに多量に利用されています。

尿素とホルムアルデヒドの脱水縮合(上)と尿素樹脂(下)

 ホルムアルデヒドは他にも、フェノールやメラミンといった比較的外れやすい水素原子を持つ化合物と自由自在に縮合し、多くの種類のプラスチックを作り上げます。このためホルムアルデヒドは極めて重要な工業原料であり、国内の生産高は年間120万t以上にものぼっています。

フェノール(左)とメラミン(右)

 「外れやすい水素原子」を持つ化合物は何もこれらだけに限らず、タンパク質などもホルムアルデヒドと反応しうる水素を多数持っています。このためタンパク質はホルムアルデヒドと出会うとあちこちが橋かけされ、固められてその機能を失ってしまいます。みなさんも理科の実験室などでホルマリン漬けの標本を見たことがあると思いますが、実は「ホルマリン」というのはホルムアルデヒドの水溶液であり、「ホルマリン漬け」というのは生物のタンパク質を固めて腐敗を受けにくくする処置なのです。

 生命の機能を司るタンパク質を固めて変質させてしまうわけですから、ホルムアルデヒドには毒性もあることになります。戦後の混乱期にメタノール入りの密造酒が出回って多くの人が失明したり命を落としたりといった事件がありましたが、これも直接の原因はホルムアルデヒドにありました。

 体内に入ってきた酒(エタノール)を処置するのは、肝臓にあるアルコールデヒドロゲナーゼ(アルコール脱水素酵素)と呼ばれる酵素です。エタノール分子から水素原子を2つ奪ってアセトアルデヒドとする役回りの酵素で、これがさらに酢酸へと酸化されて体外へ排出されます(一種の解毒作用です)。

alcoholdehydrogenase。左は全原子表示、右は模式表示(表示について詳細はこちら)。

アルコールデヒドロゲナーゼの行う反応。エタノール分子(左)を酸化してアセトアルデヒドとする。

 たいていの酵素の場合その働きは非常に厳密で、目的の物以外を処理することはあまりありません。ところがこのアルコールデヒドロゲナーゼはかなりルーズな酵素で、よせばいいのにエタノールだけでなくメタノールも酸化してホルムアルデヒドに変えてしまいます。こうしてメタノールを飲むと体内に大量にホルムアルデヒドが発生することになります。

メタノールの酸化反応。

 網膜にあるタンパクはホルムアルデヒドと反応しやすく、このため容易に機能を失って失明に至ります。さらに大量のメタノール(コップ1杯程度)を飲むと全身のタンパクが破壊され、組織損傷を起こして最悪の場合死に至ることになります。いってみればホルムアルデヒドの毒性と防腐・殺菌作用は表裏一体、同じ事柄の両面であるに過ぎません。


 さて冒頭で書いた通り、ホルムアルデヒドは現在問題になっているシックハウス症候群の原因物質のひとつと考えられています。新築の家の建材に使われた接着剤、プラスチックなどから原料のホルムアルデヒドが放散し、これを吸い込んだ人に頭痛・吐き気・思考力低下など広範囲な症状を引き起こしているというものです。

 では上に挙げたような毒性がシックハウス症候群の原因になっているのか、というと実はそうでもなさそうなのです。タンパクの変性による症状を引き起こすにはグラム単位のホルムアルデヒドを取り入れる必要がありますが、部屋の空気に混じるホルムアルデヒドの濃度はせいぜいppm(百万分の1)の単位で、いくら吸い込んでもタンパク質の変性を引き起こすにははるかに遠い価です。実際我々もホルムアルデヒドを実験に使う機会がありますが、この時にはおそらく普通の部屋の数千倍という濃度のホルムアルデヒドが漂っているにも関わらず、たいていの人にとっては特別どうということもありません(防護メガネをかけていないと多少目がチカチカする程度です)。

 またやはりシックハウスの原因とされているトルエン・キシレンなどの揮発性有機化合物(VOC)は、ホルムアルデヒドとは性質も用途も似ても似つかない化合物ですが、人によって同じような症状を引き起こします。この他、防虫剤・ワックス・化粧品の成分などさまざまな物質がシックハウスの原因になりえます。

シックハウスの原因物質、トルエンとキシレン。塗料などの溶剤として用いられる。

 ではいったいなぜ症状が起きるのか――。これは今のところ「わからない」という他ありません。わかっているのは特定の化学物質を吸い込み続け、ある一定のライン以上に蓄積すると突然に症状が起こるということです。この「一定ライン」は人によって極めてまちまちで、たいていの人には一生住んでいてもなんともない量の物質にも過敏に反応する体質の人があるわけです。

こうした病気は環境・食事・精神面など多様な要素が複合的にからみ合って発症すると考えられるため、真の原因を突き止めるだけでも非常な困難が伴います。実のところ、こうした化学物質過敏症患者の訴える症状や発症条件はあまりにまちまちであり、統一的なひとつの病気として扱えるものであるのか疑問を呈する専門家も少なくありません。新居に入る時というのは、環境の変化によって心身が様々なストレスにさらされる時期でもあり、そこから生じる様々な症状の原因を家の臭いに結びつけて「シックハウスだ」と判定しているケースなども恐らくあることでしょう。このあたりは今後の研究に進展を待たねばならないところです。

とはいえ現在もシックハウス対策は進められており、ホルムアルデヒドなどの放散・吸入を最小限に抑える研究が進行しています。建材に使われるプラスチックや接着剤も最近はホルムアルデヒドを使わないタイプに置き換わりつつありますし、酸化チタンや鉄イオンで建材をコーティングし、悪臭物質やホルムアルデヒドを酸化分解してしまう商品も実用化されています。中でも酸化チタンは光のエネルギーによって活性酸素を発生し(人体に影響はありません)、細菌や有害物質を効率よく除去する力があるので、近年大きな注目を集めています。

ホルムアルデヒド対策に用いられる鉄(II)EDTA錯体。

 安く便利であるという理由で多用されてきたホルムアルデヒドは、その安易な使用を見直さざるを得ない時期を迎えています。予想がつかなかったこととはいえ、化学が生み出した物質が人体にダメージを与えていることは事実で、その対策を立てるのは現代の化学に課された大きな義務でしょう。化学が環境を痛めつけてきたのは残念ながら事実ですが、これに立ち向かうことができる唯一の学問もまた化学だけです。

 

(筆者より追記)

最近、ホルムアルデヒド関連商品の効能について問い合わせのメールをよくいただきますが、この方面の専門家ではない筆者にはこうした製品のよしあしは判定できません。他の研究機関などに問い合わせ願います。

 

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