☆異能の脇役・フッ素の素顔(2)

 フッ素の話、今回は有機化合物編を。

 前項でも書いた通り、フッ素はあまりに強烈な反応性を持つため扱いが極めて難しく、このため有機フッ素化学のスタートもまた苦難に満ちたものでした。初めて有機フッ素化合物を作ろうとしたのはフッ素を初めて単離したモアッサンでしたが、フッ素は低温で炭化水素と混ぜても大爆発を起こし、まともな化合物は得られませんでした。ようやく初めての有機フッ素化合物が得られたのは、フッ素の単離報告から40年後、1926年になってからでした。

 現代ではいろいろな手法が進歩して効率的なフッ素化も可能になってきましたが、それでもなかなか厄介な反応であることに変わりはありません。しかし合成された有機フッ素化合物はその難しさを乗り越えるに値する、非常に魅力的な性質を持った物質群だったのです。


 フッ素は電子を強く内側に引き込んでいるため分子同士引き合う力が弱く、沸点が低くなることは前回も書きました。また炭素−フッ素結合は作るのには制御が難しく苦労するものの、できてみると非常に安定で少々のことでは壊れません。この性質を応用した代表例はフロン(クロロフルオロカーボン)で、その抜群の安定性・不燃性、さらに毒性や腐食性がないといった利点を買われて様々な用途が開拓されました。しかし近年になって地球大気のオゾン層を破壊する作用があることがわかり、使用・生産が制限されています。これについてはこちらをご覧下さい。

 この他フッ素を含む気体の応用例として、フルオロキセンやハロタン、メトキシフルランなどの吸入麻酔薬があります。これらの化合物は中枢神経を麻痺させる性質がありますが、フッ素原子の数と麻酔作用との間に相関関係があることがわかっています。これらによって昔は危険を伴うエーテルやクロロホルムを用いていた手術が、ずいぶん安全に行えるようになってきました。

左からフルオロキセン、ハロタン、メトキシフルラン。赤は酸素、黄緑が塩素、茶色が臭素、水色がフッ素。

 1938年のある日デュポン社の研究所で、テトラフルオロエチレン(TFE)のガスを詰めていたボンベが空になり、底に数グラムの白い固体が残っているのが発見されました。圧力をかけられたTFEがボンベ内で偶然に重合し、今までにない新しいプラスチックが生成していたのです。

 

テトラフルオロエチレン(左)と、重合によってできたポリテトラフルオロエチレン(右)

 テフロンと名付けられたこのプラスチックは素晴らしい耐熱性・耐薬品性を示しましたが、どうやっても溶けないため、成形が難しいという難点がありました。しかしこれも他の分子(ビニルエーテルなど)と交互に重合させるなどといった工夫によって改善され、現在では極めて広い用途が拓かれています(前項で挙げたポリマーもその一つ)。身近なところではフライパンやレインコートなどの表面加工に使われていますし、その耐熱性から軍事や宇宙開発にも欠かせない存在になっています。薬品に強く、水や油をはじく性質のため化学実験器具にも最適で、我々研究者がテフロン製品のお世話にならない日はまず一日もありません。

 現在では「テフロン(デュポン社の登録商標)」という言葉はフッ素樹脂全般を指す言葉となっているようです。テフロンの年間生産高はプラスチック全体の0.1%程度を占めるに過ぎませんが、ずば抜けた性能ゆえ他に替わりうる材料がなく、その存在感はゆるぎないものがあります。デュポン社がテフロンを「20世紀最大の発明の一つ」と誇るのもゆえのないことではありません。

 

 この他フッ素と炭素から成る材料としてはフッ化グラファイトがあります。グラファイトは炭素が蜂の巣状に並んだシートが積み重なったものですが、ここにフッ素を化合させて作ります。フッ素の性質を反映して非常によく水や油をはじき、また摩擦も小さいので潤滑剤に使われます。またリチウムと組み合わせた高性能の電池も開発されています。

フッ化グラファイト。実際にはもっとどこまでも広がったネットワーク構造。

 テフロンが1次元、フッ化グラファイトが2次元なら、3次元のフルオロカーボンはフッ化フラーレンということになります。こちらはまだ実用化には至っていませんが、やはり潤滑剤などに応用が期待されます。近年ロシアのチームを中心として研究が進み、フッ素の数が異なるユニークな構造の異性体がたくさん見つかってきています。完璧な対称性を持つフラーレンですが、フッ素がつくといろいろと面白い形になるものです。

フッ化フラーレン。左からそれぞれフッ素の数が18、20、36個のもの。

 液体のフルオロカーボン(フッ化炭素)類にも面白い応用があります。フッ素−炭素結合は分極(プラスマイナスの電荷がはっきり分かれている)しているため、酸素をよく溶かすのです。酸素を十分溶かしたフッ素系溶媒(下右)の中に、ラットを1時間沈めておいても平気で生きているそうで、ちょっと生物の常識がひっくり返るような話ではあります。

こうした性質を利用して、人工血液を作ろうという試みがなされています。全身の血液を、下に示したようなフッ素系の溶媒(水に分散させて用いる)とすっかり交換してしまったラットでも、酸素中でなら8時間生存できたという驚くような報告もあるそうです。

 もちろんこうしたフルオロカーボン類には酸素を運ぶ能力しかありませんから、血液の完全な代用品にはなりえませんが、一酸化炭素中毒や大量失血などの緊急時の一時しのぎには大きな力を発揮することでしょう。すでに移植用の臓器保存などで臨床試験が行われています。

 

 最後にやや専門的になりますが、最近進展しているフッ素系溶媒の新しい可能性を紹介しておきましょう。「水と油」というたとえの通り、一般に有機溶媒と水とは混じり合いません。また、水は塩や砂糖など極性が高い(プラスとマイナスの電荷がはっきり分かれている)ものをよく溶かし、油(有機溶媒)はそうでないものを溶かします。要は「似たもの同士はよく溶ける」ということになります。

 これを利用して必要な化合物と不要な化合物の分離ができます。必要な化合物が油に溶け、不要な化合物が水に溶ける場合なら、両者を注ぎ込んだ上で分離することによって簡単に純粋な目的物が得られます。この「溶媒抽出」は、我々化学者が日常的に行う基本的な実験操作です。

 さて先ほど、テフロンは水や油をよくはじくと言いました。ではいわばテフロンの液体版であるフッ素系溶媒はどうかというと、水とも油とも溶け合わず第3の層を形成するのです。ではフッ素溶媒には何が溶けるのか?「似たもの同士はよく溶ける」の原理通り、フッ素がたくさんついている化合物が溶けるのです。

 これを利用して今までより効率的な分離精製が可能になります。この手法は「フルオラス・シンセシス」と名付けられ、Curranらによって精力的な研究がなされています。今のところフッ素がたくさんついた化合物は値が張るという問題はありますが、うまく回収再使用できるシステムができれば面白い使い道が開けそうです。

 フッ素の話は1回で終わるつもりが、ずいぶん長くなってしまいました(^^;。次回は生体とフッ素の関わりについて。

 

 次の化合物

 有機化学のページに戻る