☆異能の脇役・フッ素の素顔(1)

 人間はこれまでに自然界から数多くの化合物を発見し、それよりもさらに数多くの物質を合成してきました。では「有機化合物」と名のつく物質はいったいいくつくらいあるのでしょうか?CASという化学物質のデータベースには数千万の化合物が登録されていますが、近年たくさんの化合物を一度に作り出す「コンビナトリアル・ケミストリー」という技術が進展してきていることなどもあって、実際の数は数億、もしかすれば数十億というケタになるものと思われます。

 ではその数億の化合物を構成している元素の種類はどれくらいでしょうか。これが意外に少ないのです。詳しい統計はありませんが、おそらく炭素(C)・水素(H)・酸素(O)・窒素(N)・硫黄(S)のわずか5種類の組み合わせだけで、あらゆる有機化合物の95%以上が作り出されていると考えられます。周期表には100以上の元素が載っていますが、有機化学界の中心である炭素と手をつないで、安定な化合物を作り出しうる元素はごくわずかなのです。

 しかし化合物数は少ないながら、非常に独特の性質ゆえに有用な使い道が開発され、有機化学界において特異な地位を占めている元素もあります。今回はそんな中から化学界きっての個性派、フッ素の化学を紹介しましょう。


 百科事典を見ると、「フッ素は元素記号F、原子番号9、原子量18.998、単体は常温で黄緑色の気体」とあります。しかしこうしたデータをいくら眺めてみても、フッ素の異常な性質は何も見えてきません。フッ素はありとあらゆる元素の中でもっとも反応性が強い、いわば手のつけられない暴れ者なのです。ガラスや貴金属とさえも反応して一瞬でぼろぼろにしてしまいますし、水でさえフッ素ガスに会えば炎を上げて燃え始めます。当然人間の体に対しても猛毒として働きます。

 このためフッ素(F2)の単離(鉱石や生体などから純粋な物質を取り出すこと)は大変に難航し、これに挑んだ化学者は大きな代償を支払うことになりました。気体の法則に名を残すフランスのゲイ=リュサックも病気になっていますし、塩素やカリウムなどを発見したイギリスの大化学者デーヴィーもフッ素のために命を落としています。彼は電気分解によって作り出したフッ素ガスを白金の壺に取り出そうとしたのですが、フッ素は最も安定な金属である白金とさえ反応してこれを食い破ってしまい、デーヴィーは洩れ出たガスの犠牲になったのでした。

 ようやくフッ素の単離に成功したのはフランスのモアッサンで、1886年のことでした。彼はフッ素ガスを、螢石という鉱物をくり抜いて作った小さな容器に取り出したのです。螢石の主成分はフッ化カルシウム(CaF2)ですから、もうそれ以上フッ素と反応しようがありません。うまいことを考えたもので、これによって彼は1906年のノーベル化学賞を受賞しています。ただしモアッサンも無傷というわけにはいかず、この実験の過程で片目の視力を失っています。

(なお念のため書いておきますと、このように猛烈な反応性を持つのは単体のフッ素(F2)分子であって、フッ素を含む化合物が全てこのような性質を持つわけではありません。虫歯の予防に使われる「フッ素」は正確にはフッ化ナトリウム(NaF)水溶液、「フッ素コート」というのはフッ素樹脂類を使ったコーティング剤のことで、これらはいずれも安定な化合物です。フッ素樹脂については次回取り上げます)。

フッ素コートに使われる樹脂の一例

 こうしたフッ素の反応性は、その「電気陰性度の高さ」に由来します。フッ素は電子(マイナス電気を帯びた粒子)を引き込む力が非常に強いのです。

 フッ素の原子では、原子核の周りに9個の電子が回っています。この電子は2個が内側を、7個が外側を回っているのですが、この外側の電子殻は8個の電子が入った時に最も安定になります。このためフッ素は周辺にある元素から電子を奪い取り、マイナスイオンになろうとする性質があります。この電子を奪う力が、フッ素は全元素中最も強いのです。ちょっとやそっとでは引き抜かれない白金の電子も、フッ素に会えばひとたまりもなく持ち去られてイオンにされてしまいます。

フッ素の原子核の模型


 安定な分子の中でも、この「電子を引き込む力」は様々な性質となって表れます。電子は分子と分子が弱く引き合う時にも働きますが、フッ素は電子をぎゅっと原子核近くへ引き込んでいるため、フッ素を含む化合物は分子間に働く力が小さいのです。結果としてどうなるかといえば、同程度の大きさの分子に比べて沸点が低くなったり、摩擦が小さくなったり(つるつる滑る)します。以前取り上げたフロンなどはこの例です。

 最も重い元素の一つであるウランも、フッ素と化合すると気体になります。下にある六フッ化ウランがそれで、57℃で気化します。この分子はある意味で、日本の運命を変えた化合物といえます。六フッ化ウランは、原爆の製造に欠かせない化合物であるからです。

六フッ化ウラン(UF6

 天然から産出するウランは、ウラン235とウラン238という2つの同位体の混合物です。このうち「核分裂」を起こして原爆の燃料となるのはウラン235の方だけですが、この含有量はわずか0.7%ほどでしかありません。重さがわずかに違うだけで化学的性質は全く同じであるウラン235を、大量のウラン238からいかにうまくより分けてくるかが原爆製造のカギになります。

 あまり知られていませんが、第二次世界大戦のさなか、日本もまた原爆の製造に着手していました。戦時中のことでもちろん情報の交流などありませんでしたが、日米ともにウラン235の濃縮に同じ方法を考えついていました。ウランをフッ素化して気体にし、その拡散速度のわずかな差を利用して235と238を分離するというものです(現在の原子力発電所でも、基本的にこれと同じ原理でウラン235の濃縮を行っています。ただし原爆のウランの濃度が100%であるのに対し、原発のそれは3〜5%程度ですので、発電所がいきなり原爆のように爆発するということはありえません)。

 理化学研究所の仁科芳雄博士らのグループは、昭和18年ころに軍部からの命令を受けて、原爆の基礎研究に着手していました。軍の命令は絶対であった時代とはいえ、大量殺戮兵器の製造を命じられた仁科博士の心中はいかなるものであったのか、それを物語る史料は残されていません。

しかし国内の資材不足もあってウラン235の分離は思うように進まず、やがてドイツから輸入されるはずであったウラン鉱石は直前でドイツが降伏したため米軍に差し押さえられてしまい、研究は暗礁に乗り上げます。そして昭和20年には爆撃によって理化学研究所は焼失し、日本の原爆計画は完全に頓挫することとなりました。運命の8月6日、広島を一瞬にして焦土に変えたキノコ雲を、理研の科学者たちはどのような思いで見つめたのでしょうか。

 それにしても核分裂の発見(1939年)から広島・長崎に原爆が投下されるまでわずか6年という事実は、現代の我々にもいろいろなことを考えさせます。科学技術を最も進展させるのは戦争であるとよく言われますが、同族を傷つけることが最大の進歩のエネルギーだというなら、それはなんとも悲しい話ではあります。


 今回はタイトルに反し、無機化学の話に終始してしまいました(^^;。次回こそは有機フッ素化合物の話を。

 

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